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山峡の村にて
さんきょうのむらにて
作品ID45318
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「河北新報」河北新報社、1931(昭和6)年6月24日、26日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-03 / 2016-05-09
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 その村は、東京から三時間もかゝらぬ遠さであり、私が長い間住なれたところであつたが私は最早まる一年も帰らなかつた。恰度、一年前の今ごろ私はカバンを一つぶらさげて芝居見物に上京したまゝ――。
 それ故、またカバンを一つぶらさげて戻つて来た私達の姿を見出したロータスといふ村の酒場の娘は、
「まあ、随分永い芝居見物でしたわね。」
 とうらみと苦笑をふくんだ鼻声で、私の妻の胸に両腕をかけてつぶやいた。
「ね、奥さん、何んな芝居を御覧になつたの、話して下さいな。」
「……芝居なんか見たかしら?」
 妻は私を振り返つてたづねた。
「…………」
「ぢや奥さん達が演つた芝居の話――」
 娘は、私達の東京での生活を、そんな言葉でたづねたりした。
「御紹介するわ、キヨちやん――この方ね……」
 妻は私達の間に立つてゐる緑色の瞳を持つたチル子を指して、
「是非あなた達に会ひたいと云つて、遊びに来たチル子さん――うちとは、とても昔から、それはもうチル子さんが生れぬ時分からの家同志のお友達で、チル子さんの姉さんのフロラさんと、この――」
 と私を指して、
「この人とは婚約の話まで起つたことがある程の……」
 などゝ云ひかけたので私は慌てゝ、
「おい/\、過去の話はやめておくれよ。」
 と軽く妻の言葉をさへぎつた。
 妻は、キヨに、チル子はこのごろ、私が書いたこの村での私達の原始生活に就ての幾つかの小説を読んだら、是非自ら村を訪れて見たいといふことになつたので、わざ/\さそつて来たのである。そして先づ、あれらの原始生活でのかゞやかしいヒロインであるロータスの姫君に紹介する所以である――などゝいふ意味のことを伝へた。
 そしてチル子が好奇にみちた腕を差伸ばして、熱意のこもつた握手を求めると、キヨは真ツ赤になつて、
「まあ、あたしうれしいわ。」
 といつた。窓下の野菜畑のふちに立ちならんでゐる梅が満開であつた。

     二

 鮒釣りに行かう――と私の妻が曇り空を眺めていひ出した。チル子も即坐に賛成した。
 私は釣りは不得意であつたが、森を越えた丘の向ひ側の沼地へ婦人同志を向はせるわけにも行かなかつたので、弁当包の袋を背中につけて、口笛を吹きながら先へ立つた。
 猫柳の枝がスイ/\と伸びてゐる池の汀に坐をこしらへて彼女等はならんで釣糸を垂れた。――私は、その傍らに焚き火をしながら二三日で東京に帰らなければなるまい――などゝ思つてゐた。
 丘の向ひ側を走る汽車の汽笛の音が時折かすかにひゞいた。――午までにチル子が五尾、妻が七尾の小鮒を釣りあげた。私達は、これらを生したまゝ持ち帰つて泉水に放すつもりだつた。
「おーい、おーい。」
 池の向ひ側の堤で、三輪馬車をとめて手をあげてゐる人があるので、注意して見ると、馬蹄鍛冶屋の若者のRであつた。私は、少々退屈をしてゐたところだつた…

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