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冬の風鈴
ふゆのふうりん
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「文藝春秋 第四巻第四号(四月特別号)」文藝春秋社、1926(大正15)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-05-21 / 2014-09-21
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 三月六日
 前日中に脱稿してしまはうと思つてゐた筈の小説が、おそらく五分の一もまとまつてはゐなかつた。それも、夥しく不安なものだつた。ひとりの人間が、考へたことを紙に誌して、それを読み返した時に自ら嘘のやうな気がする――それは、どちらかの心が不純なのかしら? この頃の自分は、書き度いことは全く持つてゐないと云ふ状態ではないのに。
 言葉が見つからないのか!
 今日になれば、あれもこれもあきらめてしまはなければならない――など今更のやうに思ふと、形のないあれやこれが今にも形になりさうな気忙しさに打たれ、かと思ふと反つて晴々しくホツともした。
 母が、どんなに気をもんでゐることだらう! どんなに待ち佗びてゐることだらう!
 そんな思ひ遣りで、一つは事務的な鞭韃を自ら強ひて今日まで伸び/\にしてしまつたのであるが、愚かなことだつた。
 どうせ無駄に棄てるべき原稿で、続けることを思ふと退屈より他に何の感情も伴はない汚れた紙片は、焼き棄てる間もなかつたので机の抽出しに無造作に投げ込んだ。そして、稚々たる感激を故意に煽つた。――「九日を済ましたら直ぐに旅行に出かけよう。」
 一刻も早く帰らう――と思つた。こんなことなら正月のうちに計画した通り、あの時東京を離れた方が得策だつたに違ひない。それにしても小説に没頭するやうになつてから反つて「非芸術的」になつたやうな矛盾に打たれる。
 思ひきつてしまふと、それでもセイセイとして何か世俗的とでも称びたいやうな沾ひのない安らかさを感じた。流れに添つた温泉宿の一室で、現在の頭の中には夢にもないやうなことを切りに書き続けるであらう自分の姿が花々しく想ひ浮ぶ。何しろペンをたづさへて旅へ出るなどと云ふことは始めてなのだ。
「お前達だけはヲダハラにとゞまつても好いね。」
「それでも好い。」
「五月頃になつて此方には帰らうかね。」
 ほんの一分違ひで決めて来た汽車に乗り遅れたので、吾々は停車場で二時間ほども待たなければならなかつた。
 これで行くと家に着くのは夜中の十二時頃にもなるだらうから、出直さうか、明日に? そして今晩は街の方へ見物に行つて見ようか? と、妻を顧みて相談をかけると彼女は、神経的に首を振つた。拒んだのだ。
「今日、行き損ふと大変よ。」
「だけど、明日だつて……」
 汽車に乗るのは殆ど半年振りだつた。乗つたと云つても、この前もやつぱりヲダハラまでゝある。東京から。
 何も厭なわけはないのだが、あの△△線を曲らずに真つ直ぐ急行列車で通り過ぎたら、どうだらう? 降りたくなるだらうか?
「それあ降りたくなるだらう。」と思つた。思想的にもそんな感傷に病らはされてゐる気もする。
「飯を食ふには時間が足りないやうな気もするし……」
「二時間もあるのに!」
「いや、何だか厭なやうな……」
「ぢやあ二時間も斯うやつて立つてゐるの?」
「だ…

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