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鶴がゐた家
つるがいたいえ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「太陽 第三十四巻第一号」博文館、1928(昭和3)年1月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-31 / 2014-09-21
長さの目安約 41 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 母がゐる町の近くに帰つたが母と同じ家に住む要もなく、何処にゐても自由であり、それなのに、何故自分は今までの都にとゞまらなかつたのか? でなければ、何故、常々憧れてゐる妻を伴つての長い旅路にたゝなかつたのか、それにも何の妨げもなかつたのに――? 何故、初めての眼新しい刺激のある何処かの地に住はうとはしなかつたのか、何か仄かな明るさを感じさせるのはそのことだけだつたが――?
 樽野は稍ともすれば熱つぽい吐息と一処にそんな意味の呟きを洩した、そんな意味もあるらしかつた、彼の幾日間もの漫然たる吐息を強ひて綴り合せて見れば――。そして彼は、自ら己れに向つて「何故――?」を用ひることのわざとらしさと、何時にも笑ひのために動いたことのない苦気な表情とをおもつて苛々と首を振りながら夜になると、土堤の草むらが窓さきにふれかゝるほど蔓つてゐる奥の北向きの部屋に籠つたり、丘の下に借りてある舟大工の離れへ行つたりして何かこつこつと飽かずに営んでゐた。
「あそこの離れの明るさは何となく気に入つてゐるよ、親爺が殆ど自分の手ひとつで建てたさうだが――近いうちにもう一棟別に建てるさうだ、此処の家がとりこはされる時になつたらそれを借りやうかしら?」
「借りる位ゐなら――」と細君も新しい土地に移ることをすゝめた。「おぢいさん達にそこを借りてやることにしたら好いでせう。」
 おぢいさん達といふのは十何年も前から此処の家の留守居をしてゐた夫婦である。
「だつて俺は何も斯んな家があるから此処に移つたといふわけでもない――来たから、まあ此処に住んでゐるやうなわけで。」樽野は辻妻の合はぬことを云つた。
「ぢや若しこれがなかつたら来なかつた?」
「――家などのことも問題ぢやない。」
「問題ぢやない……か。」細君は軽い嘲笑ひを浮べた。――「住みたくもないところに来るなんてほんとに好興ね。」
 それに違ひなかつたが彼は、細君などに易々と決めてかゝられると、いつもムツとする反感が起るのであつた。彼は、景物・人情などに就いても細君が故郷である東京のことばかりに重気を置いて無下に彼の田舎を軽く云ふと気嫌が悪かつた。
「何にも心を惑かれるものはない、描きたい風景さへもない。」などゝ云ひながら――「あゝ、つまらないところだ、俺には故郷などいふものに囚はれる気持は始めからないのだ。」
「そのうちには如何したつて阿母さんの方に一処になることになるに極つてゐるわ、あたしは平気だけれど。」
「断然、そんなことはない。」
 彼は、また首を振つた。彼は、環境に応じてどんなに浅猿しくも歪むであらう自分の性情の悲惨なフレキシビリチが怖ろしかつたが、あたつて砕ける程の環境などがある筈はなかつた。何の要もないのに斯んな風に帰つて来た自分の心の隅には、再び、退屈な、憂鬱な沼をのぞかうとでもするやうな因果な野望が潜んでゐたのかしら? …

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