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熱い風
あついかぜ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「新潮 第二十六巻第一号(新年特大号)」新潮社、1929(昭和4)年1月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-04 / 2014-09-21
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 強ひては生活のかたちに何んな類ひの理想をも持たない、止め度もなく愚かに唯心的な私であつた。――いつも、いつも、たゞ胸一杯に茫漠と、そして切なく、幻の花輪車がくるくる廻つてゐるのを持てあましてゐるだけの私であつた。廻つて、廻つて、稍ともすると凄まじい煙幕に魂を掻き消された。
 私は、そんな自分を擬阿片喫煙者と称んでゐたが、私の阿片は、屡々陶酔の埒を飛び越えて、力一杯私の喉笛を絞めつけながら怖ろしい重味で今にも息の根を止めようとするかのやうな勢ひで覆ひかぶさることが多かつた。
 私の無上の悲しみは、私が、私の幻を幻のままにこの世に映し出す詞藻に欠けて、余儀なく、凡そ自ら軽蔑し去つてゐる筈の、在りのままの身辺事を空しくとりあげては、さまよへる己れの姿に憐れみを強ひられる嘆きであつた。地上で出遇ふ「悦び」や「悲しみ」――そして、あらゆる出来事に対して、何か私は縁遠い妄想感を抱いてゐるといふかの如き自覚! それ自体が、不断の嘆きであつた。そして、また私は、事毎に、この世で出遇ふあらゆる出来事に、在る間は、惑溺し、熱中し、根限りの現を抜かして、棄てられるまでは自ら先に離さうとしない執心に、因果な矛盾を感じるのであつた。私は長年の間、謙遜と諧謔と憧憬とをプレトン派に学び、エピクテイタス、マルクス・オウレリウス流に遡つてゐるにも係はらず、この劣等な学徒は徒らに営養不良に陥つたり、空しく神経衰弱に罷つたりするばかりで、己れの妄想を、理想! と称びかへるまで健全になり得なかつた。
 それはそれとして、此処では斯んな雛祭りの夜の思ひ出から誌すのだ。
 その年の桜を見た後に永らく住み慣れた横浜の家を棄てて、一先づ自国へ帰ることに決つてゐたH氏の一家だつた。H氏から私は娘のFを、私の友達の家の雛見物に伴れて行つて欲しい、と頼まれた。私は、その晩に私がその頃寄宿してゐた日本橋の雪子の家にFを誘つた。雪子の家庭は、長女である雪子とその頃十歳位ひだつた光子との二人姉妹で、両親が大変な派手好みだつたから、そこの雛祭りはFの悦びを買ふに充分だらう! と私は思つたのである。私達の父親が夫々友達同志だつたのである。私は、学校の休日が続く時には父親の命令でFの家庭に赴いて、彼等の習慣に親しまされてゐた。
「私はこの頃になつて漸くお前が、友達のない寂しい人であるといふことが解つた。」といふやうな意味のことをFが私に云つたのはその頃だつた。
「僕をFの家に親しませてゐるのは、やがて僕をお前の国に住はせて、彼に似た経歴を持つ人にさせようとする僕の父親の心使ひであるらしいよ。」といふやうな意味のことを唸りながら徐ろに腕を組んで、稍ともすれば武悪面のやうな表情を保ちながら蔭を向く癖が私に出来たのはその頃だつた。人との別れを思ふと、止め度もなく感傷的になれた私だつた。
「僕は誰に限らず人を見送るといふこ…

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