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足跡
あしあと
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「石川啄木全集 第三巻 小説」 筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日
初出「スバル 第二号」1909(明治42)年2月1日
入力者Nana ohbe
校正者川山隆
公開 / 更新2008-11-07 / 2014-09-21
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残つて居り、村端の溝に芹の葉一片青んではゐないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消の路の泥濘の処々乾きかゝつた上を、春めいた風が薄ら温かく吹いてゐた。それは明治四十年四月一日のことであつた。
 新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健は、平生より少し早目に出勤した。白墨の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリ/\した三分刈の頭に帽子も冠らず――渠は帽子も有つてゐなかつた。――亭乎とした体を真直にして玄関から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方から駆けて来て、敬しく渠を迎へる。中には態々渠に叩頭をする許りに、其処に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其数が多かつた。平生の三倍も四倍も……遅刻勝な成績の悪い児の顔さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦を想うた。そして、何がなく心が曇つた。
 渠はその朝解職願を懐にしてゐた。
 職員室には、十人許りの男女――何れも穢い扮装をした百姓達が、物に怖えた様にキヨロ/\してゐる尋常科の新入生を、一人づゝ伴れて来てゐた。職員四人分の卓や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに狭くなつてゐる室は、其等の人数に埋められて、身動ぎも出来ぬ程である。これも今来た許りと見える女教師の並木孝子は、一人で其人数を引受けて少し周章いたといふ態で、腰も掛けずに何やら急がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。
 そして、健が入つて来たのを見ると、
『あ、先生!』
と言つて、ホツと安心した様な顔をした。
 百姓達は、床板に膝を突いて、交る/″\先を争ふ様に健に挨拶した。
『老婆さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰めて、古手拭を冠つた一人の老女に言つてゐる。
『ハア。』と老女は当惑した様に眼をしよぼつかせた。
『無い筈はないでせう。尤も此辺では、戸籍上の名と家で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙を容れた。そして老女に、
『芋田の鍛冶屋だつたね、婆さんの家は?』
『ハイ。』
『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と届けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて来ないもんですから、薩張分りませんの。』
『可怪いなア。婆さん、役場から真箇に通知書が行つたのかい? 子供を学校に出せといふ書付が?』
『ハイ。来るにア来ましたども、弟の方のな許りで、此児(と顎で指して、)のなは今年ア来ませんでなす。それでハア、持つて来なごあんさす。』
『今年は来ない? 何だ、それぢや其児は九歳か、十歳かだな?』
『九歳。』と、その松三郎が自分で答へた。膝に補布を当てた股引を穿いて、ボロ/\の布の無尻を何枚も/\着膨れた、見るから腕白らしい児であつた。
『九歳なら去…

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