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雷談義
いかずちだんぎ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「斎藤茂吉選集 第十一巻」 岩波書店
1981(昭和56)年11月27日
初出「東京朝日新聞」1937(昭和12)年8月25~27日
入力者しだひろし
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-11-29 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 雷のことをイカヅチと云つて、古事記にも大雷、黒雷等とあるが私は嘗てイカヅチは厳槌で、巨大な槌といふ語原だらうと思ひ、上代人が、彼の響きを巨大な槌を以て続けさまに物を打つと考へたその心理を想像したのであつたが、それは素人的な理窟で、実は間違つて居た。『名の意は厳なり。豆は例の之に通ふ助辞、知は美称なり』(古事記伝)とあるごとく、厳之神、厳之霊といふ意に落付く語原であつた。
 もつとも、東雅引用の文を見ると、私の考へたやうに厳槌とした素人考証家もゐたことは居た。雷のことを神鳴、鳴神といふのは、畏怖すべき神として上代人は体験してゐた。これは恐らく支那でも同じことであらう。
 雷はああいふ鋭い音をたてるから人は本能的に雷を恐れる。雷撃を直接受けたことが無くとも雷を畏怖するのは、恐らく古い世界からの遺伝で不意識に畏怖するのであらう。それがひどくなると、武道伝来記に出て来る乙見滝之進のやうな、雷の畏怖から悲劇に迄発展することがあり、
『滝之進日来雷公にこはがる事人にすぐれたれば、此ひびきに動顛して関内まづ待つてくれよと、半分頭剃りかけしを周章て立さはぎ天井の板の厚き所はないかと逃廻り脱捨し単羽織の有程引かぶり、桑原桑原と身を縮めかた隅に倒臥たるをかしさ』
には、滑稽があるけれども、西鶴ものには無限の哀韻があり、雷鳴を機縁とした人生の悲劇を描写してゐるのも、西鶴の地金の一面であつただらう。
 けれども現代は、さういふ愚直な悲痛は跡を絶つて、ほんのりとした人情を好むやうになつてゐる。菊池寛の「新道」にも雷雨を縁として男女の交会するところを写してゐるが、これには武道伝来記にあるやうな滑稽が無くて、従つて甘美で、悲劇に導くやうなことがない。そして当今の青年男女は、あの場面を幻影として一つのアヴアンチユールを形成することになつてゐるが、これもまた菊池氏の手腕であつた。
 併し、西鶴とてもいつもああいふ手厳しいものをのみ取扱つてはゐない。好色一代男に、『雷の鳴る時は、近寄りて頭まで隠せしこと』云々といふところがあるから、一方当時の読者と雖も、西鶴のこの一句から様々の冒険の心を湧かしたかも知れないのである。
 この句に続いて、『今思へば独身はと悲しく』といふ文句があるから、世之介も、三千七百四十二人の女の一人としての経験をばこの一句に託して、別離ののちの感慨に蜘蛛の糸のごとくに続けさせてゐるのである。
 雷電の畏怖も、『近寄りて頭まで隠せしこと』の程度が好かるべく、武道伝来記の悲劇でなくて、近ごろ流行する『夫婦和合の秘訣』の一端ともなるであらう。私如き者と雖それに異存は無い。

     二

 雷はその響が猛烈で、直接行動に出るときには襲撃的、爆破的であるのは、たまたま山越えなどをして大樹が無残になつて裂かれ居るのを見てもわかる。
 ところがその爆撃も穉児どもの臍…

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