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あのころ
あのころ
副題――幼ものがたり――
――おさなものがたり――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「青眉抄・青眉抄拾遺」 講談社
1976(昭和51)年11月10日
入力者鈴木厚司
校正者川山隆
公開 / 更新2007-06-03 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

        父

 私が生まれたのは明治八年四月二十三日ですが、そのときには、もう父はこの世にいられなかった。
 私は母の胎内にあって、父を見送っていたのであります。
「写真を撮ると寿命がない」
 と言われていた時代であったので、父の面影を伝えるものは何ひとつとてない。しかし私は父にとても似ていたそうで、母はよく父のことを語るとき、
「あんたとそっくりの顔やった」
 と言われたものです。それでとき折り父のことを憶うとき、私は自分の顔を鏡に映してみるのであります。
「父はこのような顔をしていなさったのであろうか」
 そう呟くために。

        祖父

 祖父は、上村貞八といって、天保の乱を起こした大阪の町奉行大塩平八郎の血筋をひいたものであると伝えられています。
 その当時はお上のせんぎがきびしかったので、そのことはひたかくしに隠して来たのだそうです。

 この祖父が京都高倉三条南入ルのところに今もあるちきり屋という名代の呉服屋につとめて、永らくそこの支配人をしていましたそうです。
 夏は帷子、冬はお召などを売る店として京都では一流だったそうです。

 この貞八が総領息子に麩屋町六角に質店をひらかせましたが、三年目には蔵の中に品物がいっぱいになったと言われています。
 ところが、京都のどんどん焼きとも言い、また鉄炮焼きとも言って有名な蛤御門の変で、隣の家へ落ちた大砲の弾から火事を起こし、その質蔵も類焼し、一家は生命からがら伏見の親類へ避難したのでした。
 そのときは母の仲子は十六、七でしたが、そのときの恐ろしさをときどき話していられました。
 元治元年の年のことであります。

 間もなく四条御幸町西入奈良物町に家をたてて、そこで今度は刀剣商をはじめました。
 参勤交代の大名の行列が通るたびに、店には侍衆がたくさん立たれて、刀や鍔を買って行ったそうで、とてもよく流行ったそうです。
 また帰国のときには子供用の刀や槍がどんどん売れたそうで、これは国表へのお土産になったのであります。

        葉茶屋

 それも間もなくのことで、御一新になり、天子様が御所から東京の宮城へお移りになられたので、京都は火の消えたようにさびれてしまい、廃刀令も出たりしたので、刀剣商をたたんでしばらくしもたやでくらしていましたが、母の仲子が養子を迎えたので、それを機会に葉茶屋をひらきました。養子の太兵衛という方はながらくお茶の商売屋に奉公していたので、その経験を生かそうとしたわけであります。
 葉茶屋の家号を「ちきり屋」と名づけたのは、祖父がつとめていた呉服屋の家号をもらってつけたのかもしれません。
 もっとも葉茶屋に「ちきり屋」というのはむかしからよくある名だそうですから、べつだん呉服商の「ちきり屋」にチナまなくともつけられたのではありましょうが……

 今でも寺町の…

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