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情熱
じょうねつ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」 筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日
初出「評論 十二號」女學雜誌社、1893(明治26)年9月9日
入力者kamille
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2007-12-28 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ミルトンは情熱を以て大詩人の一要素としたり。深幽と清楚とを備へたるは少なからず、然れどもまことの情熱を具有するは大詩人にあらずんば期すべからず。サタイアをもユーモアをも適宜に備ふるものは多くあれど、情熱を欠くが故に真正の詩人たらざるもの挙て数ふべからず。情熱なきサタイアリストの筆は、諷刺の半面を完備すれども、人間の実相を刻むこと難し。ボルテーアとスウ※[#小書き片仮名ヰ、160-下-7]フトの偉大なるは、その諷刺の偉大なるに非ずして、其情熱の熾烈なるものあればなり。ユーモリストに到りては自ら其趣を異にすれども、之とても亦た隠約の間に情熱を有するにあらざれば、戯言戯語の価直を越ゆること能はざるべし。
 然はあれども尤も多く情熱の必要を認むるはトラゼヂーに於てあるべし。シユレーゲルも悲曲の要素は熱意なりと論じられぬ。熱意、情熱畢竟するに其素たるや一なり。情熱を欠きたる聖浄は自から講壇より起る乾燥の声の如く、美術のヱボルーシヨンには適ひ難し。情熱を欠きたる純潔は自から無邪気なる記載に止りて、将た又た詩的の変化を現じ難し。情熱を欠きたる深幽は自からアンニヒレーチーブにして、物に触れて響なく、深淵の泓澄たる妙趣はあれども、巨瀑空に懸つて岩石震動するの詩趣あらず。凡そ美術の壮快を極むるもの、荘厳を極むるもの、優美を極むるもの、必らず其の根底に於て情熱を具有せざるべからず。内に欝悖するところのものありて、而して外に異粉ある光線を放つべし、情熱はすべてこのものに奇異なる洗礼を施すものなり、特種の進化を与ふるものなり、「神聖」といふ語、「純潔」といふ語などに、無量の味ある所以のものは畢竟或度までは比較的のものにして、情熱と纏繋するに始まりて、情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
 詩人は人類を無差別に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、何処までも活きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに涯られて、或る宗教の形に拘はり、或る道義の式に泥みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。写実は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は殊更に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。若し夫れ写実と理想と兼ね備へたるものに至りては、情熱なくして如何に其の妙趣に達…

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