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競馬
けいば
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「犬田卯短編集二」 筑波書林
1982(昭和57)年2月15日
入力者林幸雄
校正者松永正敏
公開 / 更新2008-01-05 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 行って来るぜ……なんて大っぴらに出かけるには、彼はあまりに女房に気兼ねし過ぎていた。それでなくてさえ昨今とがり切っている彼女の神経は、競馬があると聞いただけでもう警戒の眼を光らしていたのである。
「今日は山だ!」
 仙太は根株掘りの大きな唐鍬を肩にして逃げるように家を出た。台所で何かごとごとやっていた妻の眼がじろりと後方からそそがれたような気がして、彼は襟首のあたりがぞっとした。彼はそれを打ち消すように、えへんと一つ、咳払いをやらかしてそれから懐中へ手をやった。そこには五円紙幣が一枚、ぼろ屑のようにくしゃくしゃになって突っ込まっていた。
 一度家の方を振返って見て、女房の姿が見えないのを確かめると彼はその紙幣をくしゃくしゃのまま引出して煙草入のかますへ押し込んだ。貧すれば貪する! それは実際だった。地道にやっていたのでは一円の小遣銭をかせぎ出すことさえ不可能な村人達は、何か幸運な、天から降って来るような「儲け仕事」をことに最近熱烈に要求した。
 馬券を買うなどということもその一つの現れだった。世間がこんなに不景気にならない前は、そんなことはばくち打ちのすることであり、有閑人の遊びごとであり、唾棄すべき破廉恥事に過ぎなかった。が、一枚の馬券がたった五分間で、五円も十円もかせいでくれる! そいつを考えるとなあ君、馬鹿々々しくって百姓仕事なんか……と捨て鉢気を起して、俺だって人間だ、馬券買って悪かろうはずはあるめえ!
 みごとに五円札を二倍にも五倍にもして帰って来る者があったのである。そうした事実が――これこそまさに、求めに求めていた幸運、天から降るのか地から湧くのか知れないが、とにかく小判が転がっているようなものだった――そいつが疫病やみのように村人の魂へとっついてしまった。
 競馬は春秋二季、あたかも農閑期に、いくらかの現なまが――たといそれは租税やなんかのためには不足だったにしても――村人のふところへ宿かりした時分にあったのだ。仙太が今、女房には内密で持ち出した五円札も、実はそうした月末の納税にぜひ必要なものだった。
――十倍にして返さい! 畜生、けちけちしやがるねえ!
 彼は村を出端れて野の向うに町のいらかがきらきらと春の日光を受けてかがやいているのを眺めると、気が大きくなってしまった。この日の競馬を知らせる煙火がぽんぽんと世間の不景気なんか大空の彼方へ吹っ飛ばしてしまいそうにコバルト色の朝空にはじけた。
 仙太は、でも神妙に山裾の開墾地へ行って午前中だけ働いた。あとで女房から証跡を発見されてはいけないと無論考えたのである。が、十一時、十二時近くになって、眼の前の道をぞろぞろと人々が押しかけはじめるのを見ると、もうたまらなかった。お祭の朝の小学生のように彼の胸は嵐にふくらんでしまった。
 野良着の裾を下ろした彼は、そのまま宙を飛んだ。町の郊外にある競馬場…

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