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神楽坂
かぐらざか
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「神楽坂・茶粥の記 矢田津世子作品集」 講談社文芸文庫、講談社
2002(平成14)年4月10日
初出「人民文庫」1936(昭和11)年3月号
入力者門田裕志
校正者高柳典子
公開 / 更新2008-09-11 / 2014-09-21
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

     一

 夕飯をすませておいて、馬淵の爺さんは家を出た。いつもの用ありげなせかせかした足どりが通寺町の露路をぬけ出て神楽坂通りへかかる頃には大部のろくなっている。どうやらここいらへんまでくれば寛いだ気分が出てきて、これが家を出る時からの妙に気づまりな思いを少しずつ払いのけてくれる。爺さんは帯にさしこんであった扇子をとって片手で単衣の衿をちょいとつまんで歩きながら懐へ大きく風をいれている。こうすると衿元のゆるみで猫背のつん出た頸のあたりが全で抜きえもんでもしているようにみえる。肴町の電車通りを突っきって真っすぐに歩いて行く。爺さんの頭からはもう、こだわりが影をひそめている。何かしらゆったりとした余裕のある心もちである。灯がはいったばかりの明るい店並へ眼をやったり、顔馴染の尾沢の番頭へ会釈をくれたりする。それから行きあう人の顔を眺めて何んの気もなしにそのうしろ姿を振りかえってみたりする。毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く。軒を並べた待合の中には今時小女が門口へ持ち出した火鉢の灰を篩うているのがある。喫い残しの莨が灰の固りといっしょに惜気もなく打遣られるのをみて爺さんは心底から勿体ないなあ、という顔をしている。そんなことに気をとられていると、すれちがいになった雛妓に危くぶつかりそうになった。笑いながら木履の鈴を鳴らして小走り出して行くうしろ姿を振りかえってみていた爺さんは思い出したように扇子を動かして、何んとなくいい気分で煙草屋の角から袋町の方へのぼって行く。閑かな家並に挟まれた坂をのぼりつめて袋町の通りへ出たところに最近改築になった鶴の湯というのがある。その向う隣りの「美登利屋」と小さな看板の出た小間物屋へ爺さんは、
「ごめんよ」と声をかけて入って行った。
 店で女客相手の立ち話をしていた五十恰好の小肥りのお上さんが元結を持ったなりで飛んで出て、
「おや、まあ、旦那、お久しうございます」
 と鼠鹿の子の手柄をかけた髷の頭を下げた。「お初はちょいとお湯へ行ってますんで、直きに戻りますから」
 お上さんは爺さんがずっと面倒をみているお初のおっ母さんである。梯子段のところまで爺さんを送っておいて店へひきかえした。
 六畳ふた間のつづきになっている二階のしきりには簾屏風が立ててある。それへ撫子模様の唐縮緬の蹴出しがかけてあった。爺さんは脱いだ絽羽織を袖だたみにしてこの蹴出しの上へかけてから窓枠へ腰を下してゆっくりと白足袋をぬぎにかかった。そこへおっ母さんがお絞りを持って上ってきた。
「さっきもね、お初と話していましたよ。今日でまる六日もおいでがないのだから、これあ、何か変ったことでもあるのかしら、あしたにでも魚辰さんへ頼んで様子をきいて貰いましょう、な…

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