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鏡二題
かがみにだい
作品ID47591
著者長谷川 時雨
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桃」 中央公論社
1939(昭和14)年2月10日
初出暗い鏡「婦人公論」1929(昭和4)年、女と鏡「婦人公論」1936(昭和11)年4月号
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2009-02-20 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       暗い鏡

 鏡といふものをちやんと見るやうになつたのは、十八――九の年頃だつたと思ひます。その前だとて見ましたが、鏡にうつる自分を――まだそのころだとて顏だけですが――見たといへませう。十七位の時分は寧ろ姿全體にうつるもの――姿見鏡でなくつても、硝子戸なんぞでも氣まりが惡かつたので見ないふりをして、その癖誰も見るものがないとしげしげと見詰めたものです。どうも體のどこもが丸くなるのが――尻などが極立つて格好が惡くなつて厭でした。
 鏡といへば、子供のころ家に新舊二樣の鏡があつて、どれを見ても心を暗くしたのを覺えてゐます。八十八の祖母は舊式でしたから箪笥のある部屋へ障子屏風をたてめぐらしてその中に鏡臺が飾つてあつて、鏡は丸い鋼の鏡――夏になるとよく磨師に磨かせてゐましたが、とにかく黒ずんだ、沈んだ顏が鏡の底の底の方に生氣なくうつるのでした。おまけに部屋が藏づくりでしたから、それに窓の青葉などに白い花でもついてゐる時は、妙に氣遠いといふ心持ちがして、美しくいへば、流れに沈んだ晝の月を見るやうだとか、又は深い井戸の底にうつつた顏のやうだとか形容も出來ませうが、その場合は狐つきぢやないかと自分の顏を悲しい凄いやうに眺めて、嫌な氣持ちがしたものでした。どうもあの銅の鏡は髮の色でもなんでも生々としたところがうつらないで陰氣です。そのかはりにまた、そのころの西洋鏡――硝子のときたらば粗製品で、どれにうつして見ても顏が違つてゐるのです。顏が半分歪んでゐたり、しやくれて見えたり、滑稽な泣きつ面をしたり、ほんとに嫌になつてしまふのが多かつたので、そんなものは見たくないやうな氣がして――子供だからそれほど分明不快だとは思はなかつたかもしれないが、まあそんな覺えがあります。
 姿見は中々よく見ました。疊半分以上の、そのころのものではよい品があつたので、それに息をかけて拭きながら種々の表情をやりました。だが子供心に、妙なへだてをつけたもので、鏡は顏を見るものとしてで、姿見の前にくると別な氣分です。といふのは、あたしは踊りが大好きだつたので、お師匠さんなしの自由な踊りの稽古がたのしめたのです。いはばまあ、姿見が師匠なのでした。變なかたちをすると、「拙い」と叫ぶ、實に生まじめなもので、その聲は自分の聲とはしないのでした。
 そこで、おとなになつてからのあたしは鏡にこすい對しようをすることを覺えました。一個の鏡を二ツに役にたてる。ある折はあらゆる自分の缺點さがしをやります、醜さのかぎりを探りだします。それは顏面といふだけではなく、心にまで觸れてゐます。もつとも多く鏡の前で考へます、自分自身の惱みについて――それは深刻なものです。いつもいつもがさうであるとはいひませんが、はじめから自分を睨めるやうにむかふ時もあれば、ふと髮を解く手も忘れて、ボーツとなつてゐる時もあります。前の方の…

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