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魔のひととき
まのひととき
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の原爆文学1 原民喜」 ほるぷ出版
1983(昭和58)年8月1日
入力者ジェラスガイ
校正者Juki
公開 / 更新2002-09-23 / 2014-09-17
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 ここでは夜明けが僕の瞼の上に直接落ちてくる。と、僕の咽喉のなかで睡つてゐる咳は、僕より早く目をさます。咳は、板敷の固い寝床にくつついてゐる僕の肩や胸を揉みくちやにする。どんなに制しようとしても、発作が終るまでは駄目なのだ。僕は噎びながら、涙は頬にあふれる。だらだらと涙を流しながら、隣家の庭に咲いてゐる紫陽花の花がぽつと朧に浮んでくる。僕は泣いてゐるのだらうか、薄暗い庭に咲き残つてゐる紫陽花は泣かないのだらうか。死んだお前も、僕も、それから、このむごたらしい地上には、まだまだ沢山、こんな悲しい時刻を知つてゐる人がゐるはずだ。……
 発作が終ると、僕は寝たまま手を伸べて枕頭の回転窓の軽いガラス窓を押す。すると、五インチほどの隙間から夜明けの冷んやりした空気が、この小さなガラス箱(部屋の中)に忍び込んでくる。その少し硬いが肌理のこまかい空気は僕の顔の上に滑り込んでくる。僕の鼻腔から僕の肺臓に吸はれてゆく。発作の終つた僕は、何ものかに甘えながら、もう一度睡つてゆかうとする。(空気つて、いいものだなあ。さうだよ、もう一度ゆつくりおやすみ。こんな透明な夜明けがあるかぎり……)僕の吸つてゐる空気はだんだん柔かくなつて、僕は羽根のやうに軽くなつてゆく。小さな窓から流れてくるこの空気は無限につづいてゐる。死んだお前も、僕も、それから一切が今むかふ側にあるやうだ、僕は……。僕は……。僕は安心して睡つてゆけるかもしれない。僕は医やされて元気になれるかもしれない。安心してゐよう。あんな優しい無限の透明が向側にあるかぎり……。僕は……。
 突然、僕の耳に手押ポンプの軋む音が、僕をずたずたに引裂く。窓のすぐ下の方にある隣家の手押ポンプだ。それが金切声で柔かい僕の睡りを引裂く。バケツからザアツと水が溢れてゆく。僕の頭は水の音とポンプの音でひつくり返り滅茶苦茶にゆすぶられてゐる。僕は惨劇のなかに生き残つた男だらうか、僕は惨劇の呻きに揺さぶられてゐるのではないか。……固い寝床にくつついてゐる自分の背なかが、かちんと僕に戻つてくる。僕は宿なしの身の上をかちんと意識する。それは朝毎に甦つてくる運命のやうに僕の額に印されてゐるのではないか。漂泊、流浪――そんな言葉ではない。でんぐりかへつて、地上に墜落したのだ。僕の額の上を外のポンプの音が流れ、惨劇の影がゆれてゐる。僕はお前と死別れると、その土地の家を畳んで、郷里の広島へ移つた。すると、あの惨劇の日がやつて来た。それから、僕は寒村に移つて飢餓の月日を耐へてきた。それから僕はその村を脱出するやうに、この春上京して来た。しかし、僕を容れてくれた、ここの家も……。
 ふと、僕はさつきの発作をおもひだして、どきりとする。とこの固い寝床にくつついてゐる自分の背なかに、階下のありさまが、一枚の薄い天井板を隔てて、鏡のやうに透視されてくる。階下はまだ、しーんと…

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