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翻訳の生理・心理
ほんやくのせいり・しんり
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「大尉の娘」 岩波文庫、岩波書店
1939(昭和14)年5月2日
初出「帝国大学新聞」1938(昭和13)年9月19日
入力者佐野良二
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-07-17 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 飜訳について何か書けということだが、僕の飜訳は専門ではなくて物好きの方らしいから、別にとり立てて主義主張のあるわけでもない。ただ近ごろはやりの単色版的飜訳ということでちょっと感じたことがあるので、それでも書いて見よう。
 単色版的飜訳というのは、いうまでもなく野上豊一郎氏の提唱にかかるもので、「原物の意味だけを理知的に伝える」ことだけで満足しようとする、いわば合理主義的な行き方の名称である。ところでこの説の設定しようとする飜訳の限界はたしかに一応は正しいものだと思う。この説の聡明さもまずもって認められて然るべきかと思われる。ただその聡明さは、うちに無限の矛盾を含みながら保たれている調和――という気味を、多分に含んでいることを免れないようである。言いかえると、この説の誤解され易い点は、それが一見したところ、飜訳の生理とか心理とか云ったものから、論理面だけを単純に切取り了せているように見えるところにあると思う。
 この単色版説の恰好なよりどころとして、普通もちだされるのは鴎外の飜訳である。だが世の中にこれほど滑稽な勘違いはない。かえって鴎外のつかう語彙くらい色感の強いものは、ほかの文学者には見当らぬほどである。鴎外の文章は、意味と色とトオンとのつながりに慎重きわまる吟味を重ねた挙句に選び当てられた、的確きわまる語彙を素材とした揺るぎない構築物なのである。一たい誰にあの『魚玄機』が書けるというのであろうか。一たい誰に『即興詩人』が書けるというのだろうか。いや、論者の考えているのは鴎外の晩年ちかい枯淡な味わいの訳文なのであろうが、その淡々として水のごとき行文を支えているものはやはり、昔の鴎外の厳正な風格にほかならない。あの平明な口語文はやはり彼独特のもので、今日のわれわれの到底使いこなし得るものではない。その意味であれは紛れもなく一種の文語なのである。これほどの見分けもつかぬような人は、文学なんかお廃めなさいと申しあげるのほかはないのである。
 それはそうとして、飜訳の生理というと、まず論理を生かす道としての表現のことが考えられる。この表現上の差別という厄介千万なものをなくすためには、知性の改造という非常に遥なイメージを描かなければならない。野上氏もこの点には触れておられるし、それが晩かれ早かれ克服されなければならない懸案であることには僕も至極同感なのだが、仮に何時の日かこの遠いイメージが実現されたにしても、案外ごく限られた可能性をしか齎しては呉れそうもない――という気が強くするのである。
 昨年秋のジイドの日記のなかに次のような一節があった。それは、「思いつくままに書き下す」というスタンダールの秘訣を讃え、それとはおよそ対蹠的な例として、飜訳という仕事を挙げたものであった。他人の思想を扱うのだから、その思想を暖めたり、包装したりすること、従って言葉の選択や表現が…

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