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月の東京湾
つきのとうきょうわん
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桂月全集 第二卷 紀行一」 興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日
入力者H.YAM
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2008-09-26 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

明日は日本橋の魚市に上るらむ、魚類の運搬を主として、旅客を副とせる汽船の、三崎より來りて、松輪に寄航するを待ち合せて、艀より直ちに甲板に上る。夜の十時頃也。
 船室の中には、七八人、みな横臥して、また餘地なし。室外に蓙を敷かせて坐る。七月の末つ方、陸上の人は炎熱に堪へざらむ。こゝは漫々たる蒼波、見るからに心地よく、清風陣々として、凉氣船に溢る。一天霽れ盡して、十五夜の明月高く懸る。裸男獨り甲板の上に、この清風明月を占む。相州の武山や、房州の富山や、鋸山や、送る劍ヶ崎や、迎ふる觀音崎や、一種の友の心地して、煙草を吹けば、興味更に加はる。なほ慾張りて酒あらばとは、我ながら凡夫の身なる哉。
 下浦に寄航しけるに、二三人の乘客あり。其中、一人の青年、來りて裸男と蓙を分つ。浦賀に寄航したる時には、乘客多し。米國海軍提督ペルリの始めて所謂黒船を寄せたりけむ、そゞろに嘉永の昔を思ふ。裸男の蓙に、二人づれの男と二人づれの女と、幾んど同時に來りしが、男の方はすばやく坐り込む。女の方は腰だけを蓙の上に卸してしやがむ。側に今一枚だけ蓙を敷く餘地あり。裸男ボーイを呼びて、蓙を持ち來らしむ。ボーイ蓙を敷くより早く、二人づれの男周章てゝ之に移りて、直ちに横になる。女代りて漸く坐ることを得たり。禮のつもりにや、一人の女、袂より鹽煎餅二枚を取りて、裸男に呉れむとす。之を辭すれば、『毒は入り居らず』とて、別に一枚袂より取り出して食ふ。手にせる煎餅を引込めさうにもせず。止むを得ず、受取りて袂に入る。
 晝を欺くばかりの月夜なれども、頭上にズツクの假屋根あるを以て、居まはりは薄暗くして、女の顏はさだかならざるが、いづれも上方の語音を帶びたり。一人は五十ぐらゐにて痩せたり。一人は三十五六にて、太れり。其腰殊に大也。裸男に煎餅を呉れたるは、その肥れる女にて、『風が凉しいの、月が好いの』と、頻に話しかくれど、裸男は唯[#挿絵]うん/\とのみ答へぬ。
 艫の一段高き處の蓙は、三人にて占めたり。そこには月影させるを以て、三人の顏さやかに見ゆ。二人は洋服の紳士、一人は丸髷の年若き女也。白粉のにほひ、この女より洩れ來たる。三人とも、よく饒舌りて語り合ふ。男は友人同士にて、一瓶のビールを分ち合ふ。女は、どちらかの細君と思へど、さうでもなし。船に乘る少し前に、知合となりたるにて、夫は下室に殘し、凉味を取らむとて、己れ一人甲板に上りたるにて、所謂怪しき女にてもなし。中等社會の奧樣也。然るに、其顏を見れば、多情の相也。甘つたるき口付にて、『宿は客を好めど、妾はうるさくて堪まらず』など、はしたなきことを、臆面もなく吐露す。馬鹿は馬鹿にしても、奧樣然として居ることか、昨今の知合にて、己れに接する男にしなだれかゝる。藤の蔓の、杉にからまるも啻ならざる有樣。さすがに男も友人の手前を憚りてや、ふと身を轉じて、天上の明月を見る。…

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