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真間名所
ままめいしょ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「川柳久良伎全集 第五卷」 川柳久良伎全集刊行會
1937(昭和12)年1月25日
初出「趣好」1934(昭和9)年9月号
入力者H.YAM
校正者小林繁雄
公開 / 更新2011-04-24 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

三本松と繼橋

 千葉縣市川町眞間に引退してから、最早滿三年に成る。友人桐ヶ谷洗鱗畫伯逝いて一年以上、話相手に乏しい余は、切めて史蹟名勝に依つて心を慰めんとするが、一向に趣味の上に心のない町の人々は、史蹟など念頭においてゐない樣である。明治六年習志野の演習へ行幸遊ばされた明治大帝が、その樹下を御通行の際「美事なる松よ」とお褒めになつた市川町の名物三本松も、其一本が盤屈して街道を横斷してゐるのを、下をコンクリートにし、その樹腹をトラツクの荷物で皮をむいて了つた故、とう/\責め殺されて枯れて了つた。手をつけると祟りが恐ろしいとかで、立枯のまゝになつてゐる。
 余は三本松の時代放れした姿が氣に入つた。

トラツクにお辭儀をさせる松もあり
元日に三本松は見直され

等の川柳を詠んだが、昨今では、

繼橋は腐り三本松は枯れ

 市川競馬だけのみに熱中する町の人々を吾人は反省させたく、いつも考へてゐる。

鬪犬と競馬の中で句を作り

 繼橋は萬葉集東歌の中に下總國の歌として、
足の音せず行かん駒もが葛飾の
     眞間の繼橋やまず通はん
の歌が掲げられ、之れに依つて名高い。市川町大門通りの入江橋の北、眞間山弘法寺の下にある小さな石橋で、一昨年迄は朱塗りの橋桁が遺つてゐたが、それも村童のいたづらで溝の中へ捨てられ、只だ土臺の石だけの橋となつた。橋の袂の昔建てた石柱に「つぎはし」と刻され、又橋の袂に、元祿年間横死した五百石の旗本鈴木長頼が、僧某の四句の對句を刻したやうな石碑も立つてゐる。それは詞林千載萬葉不凋と云ふやうな文句である。此の鈴木長頼は幕府の開かれる最初の功臣開田二郎の子孫で、舊小田原北條の番臣の後らしい。眞間下に鈴木院を建て(後、龜が眞間の井から出たので今の龜井院に改む)眞間山弘法寺を信仰し、檜御殿を寄付し、立派な石段を寄進した。それは幕命に依つて日光三代の廟へ運搬すべき石段であつた。下野眞間田へ運搬すべきを下總の眞間に誤つたとの言ひ開きも通らず、檢視が來たるに先立ち、此の弘法寺の石段で立腹を切つた。今に泣石と云ふのがある。長頼は兎にも角にも眞間山や龜井院此邊の史蹟保存に關する恩人故に、余は龜井院の横にある鈴木長頼の墓を力めて紹介し、時々墓參をする事にしてゐる
 龜井院は二三年前新築せられ、立派に成り、舊蹟眞間の井、即ち眞間の手兒名の汲んだ井戸も木造の井戸側と成り、片葉の葦も茂つてゐるが、三年前には古い寺の臺所の裏に銕の井戸側で、龍吐水式で汲み上げる井戸であつた故、
葛飾や眞間の手兒名のアツパツパ
と詠んだこともある。

手兒名靈堂

 萬葉集の山部の宿禰赤人と高橋連虫麿の長歌で有名になつた眞間の手兒名は、劇に仕組まれ最著名の美人であるが、吾人萬葉頭の人間には、此手兒名靈堂といふのが、眞間山日蓮宗弘法寺の支配に屬し、普通の日蓮宗の堂形で、何だか南無妙法華經とで…

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