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妖魔の辻占
ようまのつじうら
作品ID48401
著者泉 鏡花
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本幻想文学集成1 泉鏡花」 国書刊行会
1991(平成3)年3月25日
初出「新小説」1922(大正11)年1月
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2009-06-04 / 2014-09-21
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 伝へ聞く……文政初年の事である。将軍家の栄耀其極に達して、武家の代は、将に一転機を劃せんとした時期だと言ふ。
 京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿(仮)の御館の内に、一日偶と人妖に斉しい奇怪なる事が起つた。
 其の年、霜月十日は、予て深く思召し立つ事があつて、大納言卿、私ならぬ祈願のため、御館の密室に籠つて、護摩の法を修せられた、其の結願の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞の入らない、日暮方と云ふのに、滞りなく式が果てた。多日の精進潔斎である。世話に云ふ精進落で、其辺は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構の夕餉の支度が出来た。
 其処で、御簾中が、奥へ御入りある資治卿を迎のため、南御殿の入口までお立出に成る。御前を間三間ばかりを隔つて其の御先払として、袿、紅の袴で、裾を長く曳いて、静々と唯一人、折から菊、朱葉の長廊下を渡つて来たのは藤の局であつた。
 此の局は、聞えた美女で、年紀が丁ど三十三、比野の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤を引いて引籠つて居たのが、此の日修法ほどき、満願の御二方の心祝の座に列するため、久しぶりで髪容を整へたのである。畳廊下に影がさして、艶麗に、然も軟々と、姿は黒髪とともに撓つて見える。
 背後に……たとへば白菊と称ふる御厨子の裡から、天女の抜出でたありさまなのは、貴に気高い御簾中である。
 作者は、委しく知らないが、此は事実ださうである。他に女の童の影もない。比野卿の御館の裡に、此の時卿を迎ふるのは、唯此の方たちのみであつた。
 また、修法の間から、脇廊下を此方へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀を持つ扈従もなしに、唯一人なのである。御家風か質素か知らない。此の頃の恁うした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯の大奥と表の容体に比較して見るが可い。
 で、藤の局の手で、隔てのお襖をスツと開ける。……其処で、卿と御簾中が、一所にお奥へと云ふ寸法であつた。
 傍とも云ふまい。片あかりして、冷く薄暗い、其の襖際から、氷のやうな抜刀を提げて、ぬつと出た、身の丈抜群な男がある。唯、間二三尺隔てたばかりで、ハタと藤の局と面を合せた。
 局が、其の時、はつと袖屏風して、間を遮ると斉しく、御簾中の姿は、すつと背後向に成つた――丈なす黒髪が、緋の裳に揺いだが、幽に、雪よりも白き御横顔の気高さが、振向かれたと思ふと、月影に虹の影の薄れ行く趣に、廊下を衝と引返さる。
「一まづ。」
 と、局が声を掛けて、腰をなよやかに、片手を膝に垂れた時、早や其の襖際に気勢した資治卿の跫音の遠ざかるのが、静に聞えて、もとの脇廊下の其方に、厳な衣冠束帯の姿が――其の頃の御館の状も偲ばれる――襖の羽目から、黄菊の薫ともろともに漏れ透いた。
 藤の局は騒がなかつた。
「誰ぢや、何もの…

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