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小石川台
こいしかわだい
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桂月全集 第二卷 紀行一」 興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日
入力者H.YAM
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2008-09-10 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より




東京に移り住みてより茲に三十年、東京は、第二の故郷なり。その東京にて、居を更へしこと、幾十度なるを知らざるが、感化と印象との最も多く殘れるは、小石川臺也。そは、杉浦重剛先生の稱好塾に寓したれば也。聞く、先生この頃、毎土曜日の夜に、徒を集めて、孫子を講ずと。往いて教を乞はむと欲して、未だ果たさず。夢魂空しく傳通院畔に飛ぶ。茲に一絶を作る。
危機潜在二太平日一。輕薄爲レ賢誠實愚。誰識百千黌舍外。白鬚學士講二孫呉一。
 建物にて、小石川臺の王者とも云ふべきは、傳通院也。惜しや、さき頃、燒け失せたり。されど、徳川家康の母の墳墓の在る處、今や徳川の天下にあらざれども、徳川氏は、第一流の貴族也。豈に久しく之を等閑に付せむや。
 小石川臺の南端、平地にかけての大なる一と構へは、もと水戸侯の邸宅の在りし處、義公の住みし處、烈公の住みし處、藤田東湖の住みし處、今や、砲兵工廠となりて、幽趣を極めたる後樂園、深く煤烟の奧に鎖さる。天を焦す煤煙、閑眠を破る機關の音、市民諸君、うるさしと歎つこと莫れ。日清の大勝にも、日露の大勝にも、こゝの數十の煙突、與つて偉功あり。煙突もし人ならば、金鵄勳章をうくべき也。
 砲兵工廠の西に隣れる一角、牛天神の境内は、小石川臺上、唯一の遊覽地也。江戸川の櫻花、目白臺の暮靄、牛込、麹町の瓦鱗樹木、眼界甚だひろく、殊にこゝより眺むる富士山は、東京にては最も高く見ゆ。眺望の奇、予は推して都下第一となさむとす。
 小石川臺より大塚臺へかけては、高等、尋常の師範學校あれど、特に天下の珍とすべきは、嘉納治五郎氏の講道館と、伊澤修二氏の樂石社と也。嘉納氏は、柔術を柔道と改め、精神教育を加へて、自から嘉納流を創め、天下の柔術界を風靡するの勢あり。嘉納氏は現今東京高等師範學校長なるが、鰻上りに文部大臣に進むかも知れず。されど、嘉納氏をして不朽ならしむるものは、講道館也、嘉納流の柔道也。
 伊澤氏の樂石社は、吃音を矯正する一種の學校也。翁も社會の地位は高し。されど、翁をして不朽ならしむるものは、樂石社也。其の發明にかゝれる吃音嬌正法也。現に余の二兒は、翁の教授を受けて、吃音を矯正せり。われ深く翁を徳とす。かねて、之を天下の同病者に知らさむと思ふこと切也。
 茗荷谷の奧、小日向臺と相接せむとする處に、深光寺といふ寺あり。そこに徳川時代の小説家の泰斗なる瀧澤馬琴の墓あり。これも小石川臺の一名物なるべし。
 思ひまはせば、早や二十年の昔となりぬ。稱好塾に寓せし頃、巖谷小波、江見水蔭も共に寓したりき。その頃は、傳通院と植物園との間の一帶の低地は、水田なりき。丘には狐棲み、水田には雁下りたりき。水蔭などは、よく狐狩りに出掛け、雁に石を投げたる當年の豪傑兒也。
(明治四十三年)



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