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透明な輪
とうめいなわ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-07-21 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 三角形の平地を七つに岐れて流れる川は瀬戸内海に注いでゐた。平地を囲んで中国山脈があった。平地は沢山の家や道路で都市を構成してゐた。それは今も活動してゐるのだが、彼は寝たまま朧げに巷の雑音を聞いてゐるので、活きてゐる街の姿がもう想ひ出せなかった。
 そのかはり殆ど透明な輪のやうな風景が、彼の頭には次々と浮んで来る。風景と云ふものは、臭ひや温度を持ってゐるから、瀕死の男にとっては苦痛の筈なのだが、今頭に浮んで来る風景は淡々として差程神経を刺戟はしなかった。
 もと彼は景色に対して異常な感受性を持ってゐたから、何か景色のなかに趣きがあるものとか、景色に自己を投影出来るものを絶えず探し歩いた。と、同時にそれを表現するための言葉を何時も苦心して考へたが、考への途中でよく生活上の雑念が突然入込んで来るので、彼はよく悩まされた。煩雑な生活のために精神の統一が出来ないのだと彼は思った。一本の松の姿を単純に歌ふと云ふことだけでも、どんなに困難な業か、彼はそれをよく嘆じた。また自分の心境でも煩雑な生活の底に澄んで流れる一すぢの水を掬って歌はうと思った。清澄で素朴で単純なものに価値を感じる彼は抒情詩人であった。
 彼の生涯はあまり単純ではなかった。生れ落ちると、料理屋へ養子にやられた。義理の母と云ふのが、さう云ふ商売にあり勝ちの女で、資本を出す男から男へ移るうち、結局は世間の恨みを買って、没落した。家が没落したのと、彼の肺病が再発したのが殆ど同時であった。彼は宿屋を開業して家の再興を計らうとした。しかし心と身体は並行しなかった。親一人、子一人と云ふ感慨も彼を奮ひ立たせはしなかった。病気はそれでなくても煩雑な細々としたことが気になった。気になるばかりで焦々するうちに疲れた。疲れても疲れても、夜の次には朝があった。さうして暑い夏が過ぎて、秋もやや冷え目になった頃、彼の病気はいよいよ改まった。今彼は自分の生涯がそれほど重苦しく、みじめなものともみえなくなって、只、銀幕の記憶か何かのやうに朧げに見えてゐた。――さうして、今寝てゐる姿だけがはっきりした。
 骨肉や友達や女の記憶も、それらが今は悩しくなかった。
 女と云へば彼にしつこく附纒った年増もゐたが、色里に育ちながら、女の肉体はただ想像してみるだけで現実には知らない彼であった。現実の女は美しく悩しいだらうが、同時に醜く重苦しいものにちがひない。
 これまで彼の周囲の凡ては美しかったが、同時に醜く重苦しかった。
 今日は一切の重苦しいもの、汗臭いものが除かれて、ただ透明な美しいものが眼の前に現れた。
 紫色の島が静かな海に霞んで見える。その島の一端にモーター・ボート用の棧橋がある、棧橋の下の水が透き徹って見える。腹に鮮やかな縞のある魚がチラリと見え隠れする。この景色は透明な輪となって消えて行った。
 澄んだ山を背景にしてゐる寺の山門を…

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