えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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にじ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-04-23 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 二晩ぐらゐ睡れないことがあると、昼はもとより睡れなかった。彼の頭はうつつを吸ひすぎて疲れ、神経はペンさきのやうに尖った。明るい光線の降り注ぐ窓辺のデスクで、彼はペンを走らせた。念想と云ふ奴は縦横に跳梁して彼を焼かうとする。響のいい言葉や、微妙な陰翳や、わけてもすべてのものの上に羽撃く生命への不思議な憧れや……
 へとへとに疲れてベットに横はると、更に今度は新しい念想がきれぎれに飛ぶ。何だかその状態が彼にはまた一つの未完成な作品のやうに想はれ出した。高い山に囲まれた盆地の景色が偶然浮ぶ。そこには一すぢの川が銀線を走らせてゐる。熟った葡萄畑の彼方に白い壁の家が一つ……そこは彼の生れた家なのだ。酒のやうに醗酵した空気や、色彩や、人情が溶けて流れる。だが、そのうちに睡眠が彼を揺籃へ連れて行く。彼は幼児に帰って揺籃に睡りかける……娯しい無意識の世界へ少しづつ揺れる籃。ふと、気がつくとまだ睡ってはゐないのだった。

 彼は一人印刷屋に残って、少年工に目次を組ませてゐた。停電で蝋燭を点すと、二人の影が活字棚に大きく映って揺れた。夜更けの秋雨がぽとぽとと工場のトタンの庇を打つ。真夜なかに二人かうしてゐるのが、怕いやうな気がした。何処からともなしに鬼気が漾ってゐた。
 雑誌が出来上って、彼は骨休めにレビューを見物した。すると舞台では半裸体の少女が寒さうに戦きながら踊ってゐるのに気づいて、彼の膚には粟が生じ、脊筋を泣きたいやうな衝動が走った。
 D・H・ロオレンスの激しい精神が彼と触れた。
 不図した風邪がもとで彼は寝ついた。絶対安静の幾ヶ月が過ぎた。熱のなかに視る花瓶の花があった。もみあげは長く伸びて黒かった。春が来て病態は良かった。健康になって今度筆を執ったら、どんな作品が出来るか、彼はそればかりが娯しみだった。字も言葉も大分忘れ、頭も tabula rasa の状態にまで行って来たやうだった。少しづつ足が立った。ふらふらしたが歩け出した。ゆたかな制作慾が既にうずうずしたが、もう暫くの我慢だと思って、彼は東京を離れ、故里の方へ帰った。

 しかし秋になると、彼の病気はまた逆転した。葡萄が収穫され、大気が澄みかへる季節だが、彼は節季のにぎはひにも触れず臥したままであった。何処かで響のいい鐘が鳴る。それは野良で働くものを昼餉に招く合図だった。彼は耳を澄まして毎日聴く……。毎日、ああ、生きてゐることはどんなに愉しく、美しいことか、彼には解るのだった、――鳥や、花や、男や、女や、それらが無数にキラキラ輝いて作る真昼の模様が……。
 その日、本州を襲った颱風は彼の病室の屋根の上を叫んで通った。ひどい熱のため彼の病室は茫と蒸れてゐた。何時の間にか彼は高く高く吹き揚げられて行くのだった。彼は珍しい小型の飛行機を操縦してゐた。雨雲が翼を濡らし、眼鏡も霧で曇った。しかし飛行機は雲の上に浮き…

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