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哲学の現代的意義
てつがくのげんだいてきいぎ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第三巻」 勁草書房
1966(昭和41)年10月10日
初出「唯物論研究 第六〇、六一号」1937(昭和12)年10月、11月
入力者矢野正人
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2011-11-29 / 2014-09-16
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

思想の科学

 文学に於ける思想性云々ということがよく云われている。文学に就いての文壇的常識のマンネリズムによると文学は思想という何らか或るものとはさし当り無関係であるかのような想定であったとみていい。処へ文壇的文学(純文学其の他と呼ばれた)が一種の停滞を自覚せざるを得ないようになって、その停滞を何とか打破しようという処から、改めて文学の思想性ということが注目されるようになった。文学の社会性というものとの観念連合に於てである。従来の文壇的文学に所謂思想性が果して無かったか、それとも実はあったのか、今それは問題外としよう。少なくとも思想性という話題が自覚されて来たという現象に注意しようと思う。
 確かにかつてのプロレタリア文学、つまり云わば左翼的文学であるが、これの最大の魅力は他ならぬその思想性にあった。いや寧ろその思想自身にあったと云っていい。だから最近の文学に於ける思想性という問題を提出したのは云うまでもなく、この左翼的文学であったわけだが、ここで私は、一般世間の思想というものに対する理解には、妙な点があったことを思い出す。と云うのは、一つには思想というと、何等かの学術的公式をそのまま露骨にむき出しにしたドクトリンのことであり、特に社会科学的ドクトリンのことでさえあるかのように考えられたものだ。そしてそういうものを内容とするのが左翼的文学であり、之に反して純文学の類はそういう内容と無関係であっていいから、之は思想などを必要としない種類の文学だというわけだった。
 傾向文学という言葉がある。それが正確に何を意味すべきであるかは、明らかでないように思うが、少なくとも「社会的ドクトリン」としての思想を内容とするものであることは間違いのないようだ。そうとすれば、この場合の思想なるものは、つまり傾向文学にしか必要でない処の、従って一般の文学、特に純正なる芸術的文学には不要である処の、ものに過ぎぬということになる。だが勿論思想をこういう傾向文学的なものと思い込むことは、第一の誤謬だったのだ。
 思想というものが一定の理論的ドクトリンや、まして社会理論の一定のドクトリンの形をしたものでなければならぬというようなことは、勿論滑稽な観念である。こういう滑稽な観念によって思想を理解することは、それ自身、思想というものに就いての常識と教養との欠乏を意味しているわけだが、それはとに角として、思想はもっと日常的にフンダンに見出される処の普遍的な現象なのである。云わば思想は、観念にすぎぬとさえ云っていい。観念や情緒や意欲のある処、即ち思想がある、と一応云っていいだろう。そして一切の醒めた理性ある人間はいかなる瞬間にも、観念を持たないではいない。思想とは何か特別の勿体振ったものではない。三歳の童児も有つものだろう。
 にも拘らず、充分な意味に於ける思想というテーマを文学に教えたものは、…

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