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当今の劇壇をこのままに
とうこんのげきだんをこのままに
作品ID49541
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本綺堂随筆集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日
初出「新声」1910(明治43)年2月
入力者川山隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-12-18 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今の劇壇、それはこのままでいいと思う。旧臘私は小山内君の自由劇場の演劇を見た、仲々上手だった、然しあれを今の劇壇に直にまた持って来る事も出来ないでしょうし、文士劇でも勿論あるまい。
 医師が薬を盛る時に、甚しく苦い薬であると、患者は「これは非常によく利く」といわれても、飲むのを嫌がる、男はそれでも我慢をして飲みもするが、婦人などは「死んでも妾は飲まない」などと随分と強硬なのがある。生命と取換えの事がそれである。どっちかといえば、見ても見ないでもいい芝居を、いくら良いものでも、苦かったら見まいと思う。医師は患者に苦い薬を飲ませる場合に最中やオムラートに包んで服用させる、患者はそれで利くと段々と信じ、かつ馴れて苦い薬も飲むようになるのである。
 今の劇壇はこのままでいいとは、急激な苦い薬を飲ませずに、最中やオムラートで包んで飲ませようの謂である、私は常にそう思う。芝居の見物は幼稚である、進まないといわれるが、なるほど批評家や脚本作家から見れば幼稚でもあり、進まないであろうが随分と進んでは来ている、昨年、歌舞伎座と市村座で骨寄せの岩藤を演じたが、先代菊五郎の演った一昔の前には見物は喜んで見ていたのが、今では骨が寄るのを見ると、いずれも見物は笑った。今の方が遥に道具も工夫も巧妙であるでしょうに、見物は笑った。して見ると見物は進んで行く、このままで行っても十年後には随分自由劇場も儲かる事になるでしょう。私は外国へ行った事はないが、外国でも一般の見物にはイブセンやマアテルリングなどは受けないのだそうですな、それで自由劇場のような団隊が沢山あるが、それも思わしい决算を見ないで行悩み勝ちだという。

 私は見物は進んで行くし乳がなくても子は育つ、一年経てば一つになる、外国でも見物は甘いものだ、といって、現状に満足するものでは决してないが、ただ急激な変動を見物に与えたくはない、苦い薬を飲ましたため、患者が懲りてしまって、その医師が流行らなくなるのは、本意ではない、新しい進んだ今の見物にはチト面倒だというものをオムラートで包んで見せるのが私の用意である、一つの方法として歌舞伎座の田村氏などもよくいうのです「一幕位はズバヌケて新しいものを出して御覧なさい、見物は相応に見て、苦情もいわないでしょう」と。
 今の俳優の中で延そうという者も見当らないが、先ず宗之助であろう、あの人は女役が適当であると自信して、かなりいい立役が附いても喜ばぬ風であるが、とにかく年は若し、最も有望なんであろう。菊五郎吉右衛門も、今と大差なしで固ってしまうだろうし、歌舞伎座幹部連もいずれも年配で、先が見えている、大器晩成と顧客がいう栄三郎もチト怪しいものである。もっとも今の羽左衛門が家橘といった頃は拙さ加※[#「冫+咸」、305-5]はお話になったものでなく、私は到底今のようになろうとは思わなかった、私が明…

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