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おりき
おりき
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「三好十郎の仕事 第二巻」 學藝書林
1968(昭和43)年8月10日
初出「日本演劇」1944(昭和19)年3月号
入力者伊藤時也
校正者伊藤時也、及川 雅
公開 / 更新2009-06-25 / 2014-09-21
長さの目安約 77 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

信濃なるすがの荒野にほととぎす
鳴く声きけば時過ぎにけり
          ――万葉東歌――

八ヶ嶽の、雄大な裾野の一角。
 草場と、それから此のあたりでカシバミと呼んでいる灌木の叢に取り巻かれた麦畑。黄色によく実った麦の間には既に大豆が一尺近く育っている。
 麦畑の奥は向うさがりに広がっていて、此方から見えるのは、その極く一部分だけ。周囲の草場の一部は草が刈り込まれ、そこが麦こきの仕事場になっていて、刈り集められた麦の束が積んであり、その傍には荒むしろが三四枚ひろげられ、その上に牛くさの千歯が据えてある。
 小径は仕事場のむしろの傍を通り草場を抜けて左右に伸びている。下手に伸びた小径は、麦畑のふちを通って、八ヶ嶽の峯々が合掌するように空に連っている方へ。上手に伸びた小径はカシバミの叢の中を廻って正面奥に下って消えている。
 ただ見れば平地であるが、実は海抜二千メートル以上の高地である。眼を開いていられぬほどに明るい夏の午後。
 人の姿はなく、ただ麦畑の穂波の一個所が、モゴモゴと動いている。

シンカンとした永い間。

 奥の谷の方から、小径を踏み分けてスタスタと登って来る青年。まだ少年と言ってもよいほどの頬をした、スッキリと明るい若者で、ズボンに巻脚絆に靴、あまり大きくないリュックサックにピッケルと言った、無造作な、だがしっかりした山歩きの装具。
 草場のはずれの所まで来て、ピッケルを立て、カーキ色の散歩帽を脱いで、白い額に流れる汗を手拭いでふきながら、越えて来た山の方などを見渡している……。

 いきなり、麦畑の中に立ちあがった人がある。きたない、ボロボロの姿をした百姓。刈取った麦の束を両わきに抱え込み、ムシロの方へ行き、積んである麦束の上に麦をおろす。そしてホッとして、少し曲っている腰を伸ばして膝の所から仰向けになるような姿勢をして、頬かむりから僅かにのぞいている眼と鼻のあたりに流れる汗を、まるで鍋のふた程もある大きな手のひらで、ブルンと横なぐりに拭く。棒縞の腰きりはんてんに、つづれ織りの帯をしめ、紺のももひきに素足にわらじ[#「わらじ」は底本では「わらぢ」]、頬かむりの上から小さい菅笠をかむった、このあたりの百姓姿である。着ている物の全部が縞目もわからぬ程になった古いもので、そのあちこちを何十度繕ったものか、まるでさしこの着物の様になっている。僅かにかむっている手拭だけが少し白い。
 青年はそれを眺めている。百姓は、しかし、山国の人が山の中で一人で働く時の常で、そのあたりに人が居ようなどとは思っても見ないので傍目もふらず、直ぐに又、何かわけのわからぬ鼻唄を無心にフンフンとやりながら麦畑のウネをヒョコリヒョコリと越えて穂波の中にもぐり込んで行き、鎌を掴んで、再び刈りはじめる。その急ぎはしないが、又休みもしない鎌の音と、低い鼻唄が静かにきこえる。そう…

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