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国栖の名義
くずのめいぎ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「先住民と差別 喜田貞吉歴史民俗学傑作選」 河出書房新社
2008(平成20)年1月30日
初出「史林 第四巻第一号」1919(大正8)年1月号
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-09-06 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 大和吉野の山中に国栖という一種の異俗の人民が居た。所謂山人の一種で、里人とは大分様子の違ったものであったらしい。応神天皇の十九年に吉野離宮に行幸のあった時、彼ら来朝して醴酒を献じた。日本紀には正に「来朝」という文字を使っている。彼らは人となり淳朴で、常に山菓を取って喰う。また蝦蟆を煮て上味とする。その土は京(応神天皇の都は高市郡の南部大軽の地)よりは東南、山を隔てて吉野河の河上に居る。峯峻しく、谷深く、道路狭[#挿絵]であるが為に、京よりは遠からずといえども、古来出て来た事が稀であった。これより後しばしば来朝して、栗菌や年魚の類を土毛として献上するとある。践祚大嘗会等の大儀に、彼らが列して、所謂国栖の奏をとなえ、土風の歌舞を演ずる事は儀式上著名な事で、大正御大典の時にも、伶人が国栖代として、これを奏したと承っている。
 久須という名義については、北陸方面の蝦夷を高志人と云い、樺太アイヌを苦夷と云い、千島アイヌを「クシ」というと同語で、蝦夷の事であろうという説がある。自分はクシ・コシ・クイ皆同語で、「蝦夷」というも、もとはまた「カイ」の音訳であるべきことを承認し、蝦夷名義考と題して、歴史地理(三十一巻二号及び四号)でこれを論じておいた。しかし国栖に至っては、いかにもその名称は似ているが、彼らの風俗その他、到底蝦夷らしくないという内容の研究から、かつて土蜘蛛論(歴史地理九巻三号)でも、彼らの異民族たるべき事を論じ、蝦夷名義考においても、国栖の名の説明を保留しておいた。その後名義考の補考を著わすに及んで、簡単にこれに及んで記述したが、今やさらに本誌の余白を借りて、これを纏めてみたいと思う。
 自分は思う。「久須」はもと「クニス」と呼んだもので、国栖または国主・国樔・国巣など書いたのは、その呼び声のままに文字を当てたのであろうと。この事は本居翁も既に古事記伝において疑うておられる。

吉野の国巣、昔より久受と呼来たれども、此記の例、若し久受ならんには「国」の字は書くまじきを、此にも軽島宮の段にも、又他の古書にも、皆「国」の字を作るを思ふに、上代には「久爾須」といひけんを、やゝ後に音便にて、「久受」とはなれるなるべし。されど正しく久爾須といへること物に見江ねば、姑く旧のまゝに、今も「久受」と訓り。

 とある。学者の慎重なる態度として、敬服に値する。なるほど『国』の字を『ク』の仮字に用うる事はいかにも無理だ。故吉田博士は、その地名辞書吉野国樔の条下に、諸国に多き栗栖、小栗栖の名は、『クズ』の転りにあらずやと疑われ、紀伊国栖原浦に久授呂宮あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れるものとなし、今国主宮と訛るという事実を引かれた、またその国主神社の条下には、

蓋国主は栗栖の訛なり。湯浅村顕国神社も此神を勧請せるにて、国津神とも唱ふ、……名所図会云、『国主神社は古くより久授…

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