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「孔雀船」解説
「くじゃくぶね」かいせつ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「詩集 孔雀船」 岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年4月5日
入力者蒋龍
校正者荒木恵一
公開 / 更新2014-04-25 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 先づ最初に、「孔雀船」の詩人伊良子清白氏の自傳を再録して置かうと思ふ。
「名は暉造、明治拾年拾月四日鳥取縣八上郡曳田村に生る。幼時父母に伴はれて三重縣に轉住。其の地の小學校を經て津中學校を卒業した。中學在學中同志數名と共に和美會雜誌經文學等發行。詩は十六七歳から習作を試みた。次で京都府立醫學校(今の府立醫科大學)に入學三十二年卒業、後東京に出て傳染病研究所東京外國語學校獨逸語學科に學んだ。醫學校在學中から『文庫』『青年文』に寄稿し、出京後は『明星』初期の編輯に參與、またその頃大阪で發行せし『よしあし草』(後に『關西文學』)にも執筆した。常に『文庫』の同人として河井醉茗、横瀬夜雨、其他の多くの同志と共に詩作に努力した。三十九年五月詩集『孔雀船』を出版、所收詩篇僅かに拾八篇であつた。出版と同時に東京を去り、島根大分を經て臺灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間みな官營病院の醫師として多忙に生活した。十一年現住志摩鳥羽に移り、はじめて開業、漸く時間を惠まれた、かくて前後二十三年全く詩を遠ざかつたが、昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた。」

       ○

 夥しい作品のうちから僅かに十八篇の詩を鈔した詩集「孔雀船」の初版が、長原止水畫伯の裝幀によつて、東京銀座三丁目の左久良書房から刊行されたのは、明治三十九年の五月であつた。
「新詩壇、新作家の尤なる清白君の處女作詩集は是なり、句々寶石の如く、節々彩[#挿絵]の如く、長篇は白玉城廓の如く、短篇は爛星の如し、明治年間の自然詩集を知らむと欲せば、希くは本書に就いて、その清且つ高なる絶調に聽かれんことを(書房主人白)」
 程なく、かうした廣告文があらはれたり、
「醉茗が詩、疎淡にして新警、夜雨が詩、幽婉にして古怪、多少の膏味と、一たびこれを試むるや、快感忘じ難きものありと雖も、其の色澤に於て、其の香氣に於て、一杯食指の動くを禁ずる能はざるの媚態を云ふに當つては、此の稱これを伊良子氏に讓らざる可からず(瀧澤秋曉)」
 かやうな批評があらはれたりして、詩集「孔雀船」は初めて世に示されたのであつたが、事實は、嘗て日夏耿之介氏が指摘せられたやうに「たゞ文庫といふ小天地にあつては『白眉』であり、『錚々たるもの』である事は『帝國文學』も『早稻田文學』もともに認めてはゐるが、全詩壇に於て如何の詩價があるかといふ事を考へたものは多くはなかつたのである。」
 時代は三十年代のロマンティシズムが凋落の過程を辿つて、それに代る自然主義の波が滔々と押しよせて來、或ひは來らんとしてゐる時であつた。
「定型詩や象徴詩を破壞する聲のはげしい時代でした。口語詩も起りかけてゐました。四十年五月、醉茗君が『文庫』の記者を辭し、獨立して起こした詩草社に對立して早稻田詩社が起こりましたが、この一派は詩草社との感情衝突か…

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