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麦積山塑像の示唆するもの
ばくせきざんそぞうのしさするもの
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「和辻哲郎随筆集」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年9月18日
初出名取洋之助「麦積山石窟」岩波書店、1957(昭和32)年4月20日
入力者門田裕志
校正者米田
公開 / 更新2011-01-20 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 麦積山の調査が行なわれたのは四年ほど前で、その報告も、すぐその翌年に出たのだそうであるが、わたくしはついに気づかずにいた。だから名取洋之助君が撮影して来た写真の一部を見せられた時には、突然のことで、どうもひどく驚かされたのであった。それは麦積山そのものが思いがけぬすばらしさを持っていたせいでもあるが、またそのすばらしさを突然われわれの目の前に持って来てくれた名取君の手腕、というのは、あまり前触れもなしにたった一人で出かけて行って、たった三日の間にあの巨大な岩山の遺蹟を、これほどまでにはっきりと、捕えてくることのできた名取君の手腕のせいであると思う。
 それについて思い起こされるのは、この麦積山の遺蹟と好い対照をなしている雲岡石窟の写真を初めて見た時のことである。それは東京大学の工学部の赤煉瓦の建物があったころで、もう四十年ぐらい前になるかと思うが、木下杢太郎君にさそわれて、佐野利器博士を研究室に訪ね、伊藤忠太博士が撮影して来られた雲岡石窟の写真を見せてもらったのである。当時佐野博士はまだ若々しい颯爽とした新進建築学者であったし、木下杢太郎君はもっと若い青年であった。また伊東博士の雲岡の報告も、フランスのシャヴァンヌのそれとともに、雲岡についての知識の権威であった。ところで、その時に見せてもらった雲岡の写真は、朦朧とした出来の悪いもので、あそこの石仏の価値を推測する手づるにはまるでならなかったのである。
 木下杢太郎君が自ら雲岡を訪ねて行ったのは、その後まもなくのことであったように思う。同君と木村荘八君との共著『大同石仏寺』が出たのは関東震災よりも前である。これでよほどはっきりして来たが、しかしまだ雲岡の全貌を伝えるには足りなかった。その後二十年くらいたって、奈良の飛鳥園が撮影しに行き、『雲岡石窟大観』という写真集を出した。水野精一君たちの精密な実地踏査が始まったのもそのころで、その成果『雲岡石窟』十五巻の刊行が終わったのは、つい数年前のことである。これで雲岡遣蹟の紹介の仕事は完成したといってよいが、しかしそれは伊東博士が撮影して来られてから、半世紀たってのことである。
 麦積山はその雲岡に劣らない価値を持った遺蹟だと思われるが、それをわれわれに紹介する仕事は、名取君によって一挙にしてなされたように思う。もとよりその詳細な測定や記述の仕事は、今後に残されているでもあろうが、しかしわれわれのような素人が、推古仏の源流を求めていろいろと考えてみるというような場合には、これで十分である。寸法が精確に測定されていながら、写像がぼんやりしているよりも、像の印象が精確に捕えられていて、寸法のぼんやりしている方が、われわれにはずっとありがたい。

 さてそのような観点から麦積山の写真をながめていて、まず痛切に感ずるところは、ここにある魏の時代の仏像がいかにも推古仏の源流ら…

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