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煤煙の匂ひ
ばいえんのにおい
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村礒多 相馬泰三 川崎長太郎 宮地嘉六 木山捷平 集」 筑摩書房
1973(昭和48)年2月5日
初出「中外」1918(大正7)年7月号
入力者林幸雄
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-10-13 / 2016-11-08
長さの目安約 50 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 彼は波止場の方へふら/\歩いて行つた。此の土地が最早いつまでも長くは自分を止まらせまいとしてゐるやうで、それが自分のにぶりがちな日頃の決心よりも寧ろ早く、此の土地を去らねばならぬ時機が迫つて来はせぬかといふ、妙に心細い受け身の動揺の日がやつて来たのだ。勿論それは彼の思ひ過ぎでもあつた。これまでも屡々あつたことだ。こんな気持の時は足がおのづからステーションや波止場の方へ向くのであつた。ステーションへ行つて思ふ都会の駅名を恋人の名でも読むやうになつかしく眺めるのも一種の心遣りだつた。波止場へ行つて汽船賃をしらべて旅費の都合を考へたりすることもにえきらぬ自分の心に対する一種の示威運動であつた。そこには人足達の肩を煩はしたいろ/\の貨物の山、起重機で捲き揚げられた鉄材、思ひ/\に旅装をして汽船に乗り込む客、艀から上陸する人、そこには常に放浪病者を魅惑するやうな遠い国々の幻影が漂うてゐた。然し此の土地が全く面白くなくなつた彼のやうな気持とは恐らく正反対の心持でわざ/\此の小都会に望みを抱いてやつて来る者もそこにはある。或は夫婦づれの、或は独身者らしい脛一本の労働者が、青服の着流しで、手荷物を振分に背負つて、ぼつ/\桟橋から上陸して来るのを見ると、彼はちよつとまた妙な気がして考へをにぶらせるのであつた。現在の自分の心の迷ひを今一度圧し鎮めてよく反省して見ないわけには行かなんだ。
「彼等は此の土地より外にもつとよい所へ行けないのだらうか。此の土地だつて仕事にあり附くまでは容易ぢやない。工場へ入つて愈々働くことになるまでには随分めんだうな手数を喰はされるのだ。二月や三月は居喰ひで過さねばなるまい。其の揚句、まづく行つたら身体検査ではねられて、果ては身一つの捨て場に迷ふ者さへある。」と彼は半ば同職者としてのさうした思ひ遣りを持つて、それらを眺めるのであつた。殊に妻子を曳いた渡り者を見ると一層その思ひを深うした。そして、次には直ぐ自分の無分別を顧慮しなければならなかつた。此の土地を今離れることは全く軽卒であると気が附くのであつた。どんなに厭な思ひをしても、工場の方で解雇しない限りはおとなしく此所へかじりついてゐるに越した事はないといふ心持になるのだつた。毎日工場へ出て働きさへすれば定つた賃銀が得られる現在の境遇が忽ちに何ものにも替へがたくなるのだつた。そして、自分ながら意気地なく、明日からまた気をとり直して、みつしり働かうといふ料簡になるのであつた。此の料簡は今から二年前、彼が此波止場へ着いた時の心持と稍々同じ者である。其の時は二月の末で、港の山々にはまだ雪が消え残つてゐたが波はもう春らしい丸みを見せて鷹揚に揺ぎ、商船や軍艦の間を白い鴎が飛び交うてゐた。威勢よく空一面に漲つてゐる焦茶色の煤煙、その下に鉄とエンヂンとのどよめき渡る工場の彼方を汽船の甲板から眺めた時、彼は云…

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