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初代谷風梶之助
しょだいたにかぜかじのすけ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻2 相撲」 作品社
1991(平成3)年4月25日
入力者浦山敦子
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-08-04 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 前に谷風なく後に谷風なしと称さるゝ仙台の産、谷風梶之助は、蓋し江戸勧進角力あつてより、昭和の今日に至るまで、力士中の第一人者として、何人も否定する者なき名力士である。故記を案ずるに、此の谷風以前に谷風と称せる力士一二人あり。其の中の讚州高松の谷風梶之助といへるは、大阪に於て多年雄飛して殆んど敵するものなしと言はれし大力士であつたが、後に仙台の谷風出づるに及んで、前の谷風の名は世間に称さるゝこともなく、谷風といへば即ち仙台の谷風なりと了解さるゝ程であつて、其の名に谷風あつても其の実は谷風なく、終に谷風前に谷風なしとまで称さるゝに至つたのである。而して仙台の谷風没してより、今に至つて百数十年、其の人に谷風なきのみにあらず、其名にも亦谷風なし、之れ其の大名の憚つて之れを襲名するものなきに依るのである。
 明治年間に、同じく奥州より出でし大砲万右衛門あり、六尺有六寸の巨躯横綱力士となりし日、仙台の某家に伝来する谷風の遺物を贈る者あり(弓、横綱、肖像等にして今は上野博物館に在り。)其の同国と遺物に因んで谷風を襲名することを勧誘すること頻りであつたが、大砲は其の大名に当らざることを考へ、自から固辞して其の襲名を断つたことがあつた。又同国の出身力士駒ヶ嶽に対しても、その襲名を勧誘せる者ありしが、駒ヶ嶽も亦固辞して其襲名を憚つた実例がある。斯くの如くにして谷風以後に谷風なしと称さるゝに至つた。
 此の谷風梶之助は、奥州宮城野霞峰村(現在は霞目と書くといふ)の産、父を弥五右衛門といふ、或は与五衛門といひしとの記録もあるが、蓋し微々たる一農夫であつたと思はる。谷風は、寛延三年八月を以て生る、幼名を与四郎といふ。十九歳にして江戸に出て力士となる、初め秀の山と号し、後に達ヶ関森右衛門と呼ぶ。安永三年四月の角力番附には西の幕の内前頭筆頭に在り、翌四年十月の番附には西の小結に進み、同五年十月の番附には谷風梶之助と改め、西の関脇に進む。年を算ふるに二十七歳である。彼が大関に昇りしは天明二年の二月の場所、浅草蔵前八幡社境内に於て興行の時であつた。其の横綱を免許されたのは其後の八年寛政元年、同じく三年吹上に於て、時の将軍徳川家斉の上覧角力の日に、小野川と対場し気勝ちとの名乗りを揚げられ面目を施した。同じく七年江戸市中流行感冒猖獗を極め、谷風亦此の感冒に襲はれ、鬼神も憚からるゝ大力士も病魔に抗しがたく、之れがため、其の年正月九日長逝す、享年四十六歳、法諡を釈姓谷響了風といふ。郷人追慕已まず、其の碑を郷里に建つ彼の存在は同国の誇りとするところ
わしが国さで見せたいものは
     昔しや谷風今達模様
とは好角家ならぬ人々までもよく知る処である。
 谷風は身長六尺、体量四十三貫ありしと伝へ、或は身長六尺二寸余とも伝ふ。容貌温厚、其心も亦其容貌の如く、当時極めて敬愛されしものゝ如く、彼の成島司直の…

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