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工場の窓より
こうじょうのまどより
作品ID513
著者葉山 嘉樹
文字遣い新字旧仮名
底本 「筑摩現代文学大系 36 葉山嘉樹集」 筑摩書房
1979(昭和54)年2月25日
入力者大野裕
校正者高橋真也
公開 / 更新1999-10-04 / 2014-09-17
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 兄弟よ! もう眼を覚さなければならない。午前五時だ。起きて工場へ働きに行かねばならぬ。さうしないと人類は物資の欠乏に苦しむから。おとなしくわれ等は待たう。今までも待つたやうに。軈て資本家達も良心を眼覚すであらうから。
 また兄弟よ。われ等も心の眼をもつとはつきり覚さうではないか。理想の光が天空一杯に輝いてゐるではないか、「愛」の波が悠久な姿で静かに工場の裾を洗つてゐるではないか。自然がわれ等に啓示する神の思想や愛を、労働のあらゆる刹那、十五分の休みに、冷たい水のやうに心地よくわれ等は飲み込むことが能きる。
 兄弟よ! 労働は幹なる哉。われ等は工場で死の危険と面接し、家庭に帰つて貧窮と握手をする。兄弟よ。これ等のことは苦しいことである。けれどもこの苦しみの中に人類の進む道が残されてゐる。何故つて兄弟よ。貧窮と苦痛とのある処にだけ虔譲と愛とが残されてあるからだ。
 兄弟よ。われ等は近々僅な日子の中に多くの負傷者と一人の死者とを、われ等の兄弟の中から出した。彼等の運命は思ふも哀れな限りである。足を折つた一人の兄弟は治癒が長びいて、一ヶ月半経つた。工務課の人たちの意志によつて彼は未だ動かせぬ足を持つて下宿へ帰された。兄弟よ。われ等は算盤玉ですつかり弾き出されるのだ。ある技手は「あいつは酒を飲んで来て、倒れるに極つてゐるセメント袋の山の下に、幾度も注意されたに拘らず休んでゐやがつたんだ」と云つた。さう云へば会社は公傷の取扱にしないで済むからだ。兄弟よ、われ等を同胞であると思つて呉れる人間が、たつた一人でいいから工務課に欲しいではないか。そこには人間の代りに製図機械や、ペンや、算盤玉などが、洋服を着て毎日詰めかけて来るのだ。
 兄弟よ。製図機械や、算盤玉は整つてゐて綺麗だが、われ等は汚くつて埃まみれだ。
 兄弟よ。五月の十九日、兄弟の一人が熱灰中に墜ちて大火傷をした揚句、病院で遂に死んでしまつた。兄弟よ。他の事では無いのだ。われ等は皆悲しみと怖れとに囚はれた。われ等も何時、どんなことで死なぬとも限らぬのだ。それがわれわれの運命なんだ。
 火傷をした兄弟が臨終の苦悶の時、「何分後の処をお願ひ申します」と云つた。あの時の顔は自分の胸に固く焼きつけられてゐる。兄弟はクリストが十字架についた時のやうに、柔和な顔をしてゐた。誰を呪ひも恨みもせずに、天命だと諦めて逝つたのだ。一人の妻と四人の子供を残して。
 兄弟よ。彼が臨終にわれ等に頼んで行つた遺族は、工場法の規定による彼の日給の百七十日分と、外に約百円、合せて四百円を受取れることになつた。遺族のために四百円の金はどんな意味を持つことであらう。
 兄弟よ。十字架を負うて逝ける兄弟と、その遺族のために、われ等の味方になつて奮闘した、一人の算盤玉は、工務課から排斥せられ、主脳者によつて首が、そのあるべき処以外に置かれ…

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