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小波瀾
しょうはらん
作品ID51353
原題ЖИТЕЙСКАЯ МЕЛОЧЬ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「カシタンカ・ねむい 他七篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日
入力者米田
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-07-18 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ニコライ・イーリイッチ・ベリヤーエフというのはペテルブルグの家作持ちで、競馬気違いで、そして栄養のいいてらてらした顔の、年の頃三十二ぐらいの若紳士であった。その彼がある晩のこと、オリガ・イワーノヴナ・イルニナ夫人に逢いに行った。この女は彼と同棲していた、或いは彼自身の表現を借りれば、彼は彼女と退屈な長ったらしいロマンスをひきずっていたのであった。実際、このロマンスのはなはだ興味があり崇高ですらあった書き出しの幾ページかは、とっくの昔に読まれてしまったので、今ではなんの珍しいことも面白いこともないページが、だらだらと続いているだけであった。
 あいにくオリガ・イワーノヴナは留守だったので、私たちの主人公は客間の寝椅子に寝そべって、彼女の帰宅を待ち受けることになった。
「今晩は、ニコライ・イーリイッチ!」と男の児の声がした、「ママはじきに帰って来ますよ。今ソーニャと一緒に仕立て屋さんへ行ったの。」
 同じ客間の長椅子の上にオリガ・イワーノヴナの息子でアリョーシャという八つになる児が寝ころがっていた。彼はなかなか綺麗な男の児で、ビロードのジャケツを着て黒の長靴下を穿いた姿は、まるで絵でも見るようだった。彼は繻子のクッションの上に寝て、最近にサーカスを見物したとき眼をつけた軽業師の真似をしているらしく、片脚をかわりばんこに上へ蹴り上げていた。やがて上品に出来あがった脚がくたびれてしまうと、こんどは両手を使い出して、猛烈に飛び上がってみたり、四つん這いになって逆立ちの稽古をやり始めた。そんなことをやっている彼の顔つきはとても真剣で、苦しそうに息をはずませたりして、まるで神様がこんなにいっときもじっとしていられない身体をお授けになったことを怨んでいるように見えた。
「やあ、今晩は、先生」とベリヤーエフは言った、「君だったのか。ちっとも気がつかなかったなあ。お母さんは丈夫かい?」
 アリョーシャは右手で左足の踵をつまみ、頗る不自然な姿勢になったかと思うとくるりと引っくり返り、途端に飛びあがって房の一ぱいついた大きなランプの笠の蔭からベリヤーエフの顔を覗きこんだ。
「さあ何て言うのかなあ?」と少年はちょっと肩を揺すって答えた、「本当を言うと僕のママはいつだって丈夫じゃないんですよ。ママは女でしょう、ところが女ってものは、ニコライ・イーリイッチ、しょっちゅうどこかしら痛いんですよ。」
 ベリヤーエフは手持ち無沙汰だったので、アリョーシャの顔を眺めはじめた。彼はオリガ・イワーノヴナと今のような関係になってから、まだ一度もこの男の児に注意を向けたこともなく、全くその存在を無視していた。男の児は彼の眼の前にいつも姿を見せた。けれど彼は、なぜこの児がいるのか、どんな役目をしているのか、そんなことは考えてみようとも思わなかった。
 夕暮れの薄ら明かりに浮かびあがっているアリョーシャの…

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