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新童話論
しんどうわろん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-20 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 月の中で兎が餅を搗いているというお伽噺も、それが以前であったら、何等不自然な感じを抱かせずに子供達の頭にはいったであろうが、いまの小学校へ行っている者に、月を指して、あの中に兎が棲んでいるといったら、たといそれがお話であろうと、かく空想することに却て骨が折れるかもしれない。それは、彼等にとってあまり不自然な事柄にきこえるからです。
 それであるからといって、この頃の子供達に、著るしく詩的空想が欠乏したという理由にはならないのであります。なぜなれば、もし彼等に月の世界がどういうところだかということを話したら、熱心になってその話をきくばかりでなく「どんな生物がそこに棲み、そして、昔はやはり人間が住んでいたのだろうか。昼は熱く夜は寒いというが、ロケットに乗って行って見ることができたら、どんなだろう……」と、さまざまに空想を逞うするにちがいないからです。

 これを要するに、兎が餅を搗いているといった時代の子供の知識はその生活状態と調和していたがために、何等不自然を感ずることなく、その話の中に引入れられたのであるが、いまの子供達の知識はかゝる現実に根拠を有しない空想を拒否するがために他ありません。そして、彼等は、遊びの上にも、娯楽の上にも、知識との調和を求めています。それは極めて自然なことであります。

 空想はいかに自由であるといっても、現実に立脚するものです。北方の土地に生れた子供達には、南国の自然や、生活は、たとい書物で見たり、話できいたりしても、真に分るものではないのです。そして、それを幾何でも分るようにするには、芸術の力を借りなければならない。

 たとえば、同じ海にしても、北方の海と、南方の海とは、色彩、感覚、特性等から、その人々に与えつゝある影響に至るまで異るのであります。従って、その地方の子供達が海洋に対する空想、憧憬は、決して同じいものではなかったばかりでなく、これに対する愛憎、喜悲の感情に至るまで、また同じいとはいえなかったでありましょう。
 それであるから、概念的に、ただ海といっても、すべての子供達にぴったりと来るものでない。また、海というものゝ学問的な知識だけでも満足させ得るものでない。彼等の経験と知識とが調和して、その上に築かれた美しい空想の世界でなければ、真に魅することはできないのであります。
 すべての空想が、その華麗な花と咲くためには、豊饒の現実を温床としなければならぬごとく、現実に発生しない童話は、すでに生気を失ったものです。過去のお伽噺が、その当時の生活、経験に調和して生れたものであるなら、新しい童話は、今日の生活から生れた美しい夢でなければなりません。
 童話は、空想的産物なるが故にそれだけ現実と共闘し、現実性を帯びなければならぬ筈なるに、これまでの作家は、童話はお伽噺であり、お伽噺は、所詮架空を材料とした作品なりとの理由をも…

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