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将棋の話
しょうぎのはなし |
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作品ID | 52185 |
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著者 | 外村 繁 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻8 将棋」 作品社 1991(平成3)年10月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2015-05-03 / 2015-03-08 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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僕達、阿佐ヶ谷に住んでゐる友人達が中心になつて、時時将棋の会を催すことがある。
常連は井伏鱒二、小田嶽夫、上林暁、太宰治、木山捷平、古谷綱武、亀井勝一郎、中村地平君等である。時には上野から砂子屋書房主や尾崎一雄君。また一度などは遥か千葉から浅見淵君が参加したこともあつた。が、皆の腕前は非常にまづいらしく、記録係の、と言つても、ただ勝負の白丸黒丸を書くだけであるのだが、その僕が見ても、人前でうつかり将棋をさすなどとは言へないやうな人も多かつた。が、皆は、
「昨夜、どうもよく眠れなかつたのでね」
などと、一生懸命なのである。さうして口口に柄にもない言葉を言ひ合ひながら、軈て夢中になつて優勝を争ふのであつた。私はもう皆四十にも近い友人達の、そんな何事も忘れてしまつたやうな無邪気な様子を見てゐるのが好きであつた。が、井伏君は、上林君や古谷君とともに、その中では主将格で、優勝することも多かつた。
ある日、いつも私の所へ来る二人の青年が、彼等の組織してゐる劇団で今度上演したい脚本のことについて、Kさんに紹介してほしいといふことだつたので、私はその二人の青年をKさんの所に伴つた。が、その脚本は既に他の劇団と契約が出来てゐて、駄目だつたがその帰途、私は不図、井伏君の家の前を通り、その一人の青年が井伏君の作品を愛読してゐるのを思出し、
「ここ井伏さんの家、一寸寄つてみようか」と言つて、不意に井伏君を訪れた。丁度井伏君は在宅だつた。私は二人の青年を紹介すると、その劇団のことなど井伏君に話した。がその時も、井伏君は非常に将棋が差したかつたらしく、いきなり、
「君、将棋をする芝居はないかね」と言ふのだつた。不図見ると机の横に分厚い将棋盤が置かれ、その上には駒の箱がちやんと乗せられてあつた。大方、丁度井伏君が一人で将棋を差したい、差したいと思つてゐた時、私達がどやどやと現れたのであらう。かういふ時井伏君はもう子供のやうに、どうにも我慢出来ないやうであつた。いつかも、井伏君は私の家の玄関に立つて、いきなりかう言ふのである。
「将棋が差したいのだ。君、O君の家はどこかね」
その頃、O君の家は私の家の近くだつたので早速井伏君をO君の家へ案内した。が生憎O君は留守だつた。すると井伏君は路の上で脚をもぢもぢさせながら言つた。
「君は、将棋が差せないから、駄目だね、K君の家はS医院の所を入るんだね、ぢや、失敬、将棋が差したいんでね」
井伏君は何か私に済まないやうな、と言つて隠し切れないほど嬉しいやうな微笑を浮かべると、くるりと後を向いて、足早に歩き去つて行つた。若しもまたK君も留守であつたら井伏君は大方この辺の将棋の出来る友達を片端から訪ねかねまじい勢であつた。
「君達、将棋、やるんでせう」
先刻から、この間の将棋の会の話や、他の友人との将棋の強弱など、将棋の話ばかり話し続けてゐた…