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支那を識るの途
しなをしるのみち
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「月刊支那研究復刻版全四冊 第一冊」 龍渓書舎
1979(昭和54)年9月30日
初出「月刊支那研究 第一巻第一號」1924(大正13)年12月1日
入力者齊藤正高
校正者石田卓生
公開 / 更新2012-04-26 / 2014-09-16
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 廣大な支那大陸の天然現象を研究することはその道の學者にとつて興味深いことに相違ないが、一般人の支那を知り度いとか支那は不可解だという云ふ場合の「支那」は其の殆ど總ての場合に於て專ら其人文現象のみを意味するのである。從つて私も亦其意味に從ふであらう。今少し詳しく言へば、我々の論議の對象は支那民族を構成する所の個人及び社會であり、個人に關する諸現象は心理學とか人種學とか云はるゝ自然科學の領域に屬し、また社會に關する諸現象は各種の社會科學の範圍に屬するものである。支那智識の豐富な所有者を俗に支那通と呼びならはし世人は一面に之を重寳がり他面に之を輕侮して居るのであるが、支那通の輕侮を受ける理由は彼等の經濟的及び道徳的缺陷を別とし、其表藝たる支那智識の内容の非科學的な爲であつて、所謂身から出た錆であつて決して彼等を輕蔑する所の世人の罪では無さゝうである。譬へば所謂支那通の豫言は第一革命以來越中褌と同じく、必ず向ふからはづれるものであると云ふ洵に不結構な折紙をつけられて居る。然らば何故に支那通の支那智識が非科學的であると斷言し得られるかと云ふに、先づ第一に豫言と云ふことであるが、何年何月何日に日蝕があると云ふ風に今日の自然科學では正確なる、或は夫に近い程度の豫言が許される樣に進むで居るのだが、社會科學の方では一面に學問自身の幼稚な爲と他面には社會現象の複雜を極める爲とに由り、正確な豫言は申すに及ばず蓋然的な推定すら下すことが困難な状態にある。譬へば經濟學者は恐慌の週期性と云ふ事を唱へ、之を一つの經濟法則であると誇稱して居るのであるが、實際の事實に照合して見ると恐慌は必ずしも十年目に起ると限らない。即ち社會現象にあつては科學的研究の結果に於てすら豫言の許されない今日に於て、如何に支那智識の豐富な支那通であるとは云へ、内亂が起るか起らぬか、起つたら何ちらが勝つか、何時頃如何なる形で終熄するかと云ふ樣なことを正確またはそれに近い程度に洞察し得る道理が無い。此の明かな道理に拘らず所謂支那通どもが大膽にも、或は無思慮にも新聞記者などの問に答へて豫言の安賣りをすると云ふ事は、畢竟彼等の頭が非科學的に出來上がつて居る爲である。支那通の頭が非科學的である事の結果は獨り越中褌的な豫言を濫發して世間にもの笑をまねく許りでなく、彼等の持つ支那智識そのものが凡て斷片的であつて其の間に何等の統一又は連絡なく、必要に應じて兎の糞の樣にポロリ/\と間に合せ的に出て來るに過ぎないのだから全然とは言ひ得ない迄も、聽者の頭で適當に取捨及び統一を與へぬ限り殆ど實際の役に立たぬのである。



 從つて我々は所謂支那通から離れて全く別な方法をとり、其方法に添ふて支那智識を吸收する外無いのであるが、然らば此の新らしい方法とは抑々何であるか。一言にして之を盡せば科學的方法である。即ち前にも一寸述べた樣に…

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