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著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第一巻」 筑摩書房
2002(平成14)年8月20日
初出「十三人 第二巻第九号(九月号)」十三人社、1920(大正9)年9月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-25 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 若しも貴方が妾に裏切るやうな事があれば、妾は屹度貴方を殺さずには置きませんよ、と常に云つてゐた女が、いざとなつたら他愛もなく此方を棄てゝ行つた。此方こそかうして未練がましくも折に触れては女の事を思ひ出して居るが向うでは……妾は自分の将来を考へなければなりません。貴方のやうな全く取得のない不真面目なさうして涙を持たぬ人はつくづく愛想が尽きたのです。貴方のやうな人と将来を共にするなどゝいふことは、あゝ、考へても怖ろしい……と云つてさつぱりと行つてしまつた程なのだから無論此方のことなどを思ひ出すことなどはいつになつたつてありやあしまい――。
 ある夏の夕暮私は店先の縁台に腰を掛けて煙草を喫しながら往来を眺めて居た時、ふと去年別れた照子の事を想ひ出しました。どうしてもあきらめ切れないとあの当座は何れ程悲しんで居たか知れなかつたのですが、何と云つても月日には勝てないもので、此頃ではまあいゝあんばいに殆ど照子の事は忘れてしまつたのでしたが、又想ひ出したのです。私は悲しくなりました。然し此頃の私の悲しみは、照子はもう再び帰らない絶対的のものになつて居りましたから、たゞこんな場合にふと感ずる感傷的なものになつて居りました。で私の心は照子からは離れていつか自分自身の心を悲しんで居るやうに見えました。「貴方は涙のない不真面目な人間だ。貴方は永久に孤独だ。」と照子が残した言葉が、ほんとに当つてゐるらしい気がして、と思ふと私は、でありながら孤独に堪へられない自分を情けなく思はずには居られないのです。だから私はいつもこんな事を想ひ出した時には屹度照子の言葉に対する反抗心を起します。がそれが意識しての反抗心であるといふことは直ぐに明かになつてしまひますので、結局私は自分のどの感情が強いものでどれが弱いものであるかといふ事が解らなくなつて――やはり心細い気持で照子の幻を追ふより他はないのです。
「暑かつた為か随分出ますね。家の子供達も今帰つて来ましたが折角買つた紅提灯を圧しつぶされてしまつたてえんで、どうも泣いたり笑つたり、うるさくつてやり切れねえんで――」隣りの紙屋の主人が私の傍へ来て団扇でぱたぱたと足をたゝきながら腰掛けました。
「さうさう今日は五日でしたね。水天宮様を忘れるなんて……」と私は何気なく答へた時、割合に真実性をこめて自分の心を叱つて居たのに気が附きました。「ぢや私が秀ちやんを伴れてもう一度提灯を買ひに行きませうか。」
「どうして、もうかう人が出ちやとても子供なんて伴れちや歩けませんや。涼みながらまあ行つてらつしやいな。」
 私は可成り熱心に、伴れて行かうと云ふ事を云ひましたが、紙屋さんは終ひに、でもあぶなう御座んすから、と断りました。
 紙屋さんが帰つた後、私は物足りない寂しさを感じました。子供の時分あの赤い小さな提灯に豆蝋燭を入れた時の喜びがはつきりと想像されました…

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