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あめ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「正宗白鳥全集第十二卷」 福武書店
1985(昭和60)年7月30日
初出「婦人倶楽部 第八巻第八号」講談社、1927(昭和2)年8月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者山村信一郎
公開 / 更新2013-12-01 / 2015-02-06
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 杜若の蔭に金魚が動いてゐる。五月の雨は絶え間なく降つて居る。
 私は帝國ホテルの廻廊の椅子に腰をおろして、玻璃越しに中庭を眺めてゐた。いろいろな刺戟から免れて心の閑かな時であつた。
 私は下宿屋に於いても温泉に於いても、雨の降る日には屡々少年の頃、森田思軒の譯文で讀んだアーヴイングの小品「肥大紳士」を思ひ出したのであつたが、今日もそれを思ひ出した。
 雨の日の旅館の侘しさに屈して居る男が、隣室の泊り客の氣六ヶしい言語擧動に耳を留めてゝどんな客かと怪しんで、「肥大紳士」たるその客の正體を、出立の間際に見つけるといふ、筋立てのさして面白くもない小品たるに過ぎなかつたが、どういふものか、私の幼な心に懷しく印象された。……「鷄が糞矢の側に、雨にしよぼぬれて餌をあさつてゐる」のを、所在なく見下ろしてゐる男は、壁一重隣りの客が、主婦をとげとげしく叱りつける聲を聞きつける。……そこに何となしに、旅の雨の侘しさを、私は感じたのであつた。
 眼を轉じると、午後の茶を飮んで居る人々、雜話に耽つてゐる人々、さま/″\の異國の男女が、あたりに見られたが、日頃こゝに泊り馴れて居る私は、さして物珍しくは感じなかつた。たとへ他國人を重な顧客としてゐるホテルであつても、東京の眞中に存在してゐるこのホテルは、私をして、波濤千里の異域に身を置いてゐるやうな白晝夢を夢見させる力を有つてゐなかつた。
 私はやはり、生國の日本の宿屋に安らかに身を置いてゐるので、アーヴイング描寫の「鷄が雨にしよぼぬれて餌をあさつてゐる」淋しい雨の宿の光景も、それがアメリカの田舍の宿の侘しさを、私の心に傳へるのではなかつた。日本に飜譯化されて私の頭に映るのであつた。「半夜燈前十年事、一時和レ雨到二心頭一」といふ杜荀鶴の七言絶句も、われ/\にはよく思ひ出される含蓄の深い漢詩の一つであるが、この作者の心頭に浮んだ追懷は、陰鬱な色を帶びて居たのに違ひなかつた。「嶽色江聲暗結レ愁」と、追懷の背景を唄つてゐる。
 ところが、今私の眼前に降り濺いでゐるホテルの中庭の雨の音や、芝生や若葉の色には愁ひの影は添つてゐなかつた。そして、雨に和して私の心頭に浮ぶものは、取り留めのない切れ切れな、銷閑のよすがとすべき雜念に過ぎなかつた。

 あれは、一昨年の一月であつたか。菊五郎と吉右衞門との二名優が、市村座で「四千兩」といふ御金藏破りの古ぼけた默阿彌物を演じた時であつた。私は、信州へ雪見に出掛けるつもりで、汽車の時間の都合で、東京に一泊したが、突然思ひついて評判の合同劇を、中幕過ぎから見る事にした。空模樣が怪しかつたので、私は雨具の用意をしてゐたのであつたが、大詰の傳馬町の牢屋が終る頃には、やがて雪にでもなりそうな冷たい雨が、可成り激しく降り出した。
 電車は故障があつたのか、暫らく杜絶えて、停留所のあたりは、芝居歸りの客の雨傘や蝙蝠傘で…

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