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啓蒙の現代的意味と役割とについて
けいもうのげんだいてきいみとやくわりとについて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 別巻」 勁草書房
1979(昭和54)年11月20日
初出「饗宴」1931(昭和6)年9月号
入力者矢野正人
校正者Juki
公開 / 更新2012-08-05 / 2014-09-16
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 現代の日本に於ては教育家というものは数え切れない程存在している。少くとも教育という問題に関心を持っている者は、他の関心の所有者に較べて圧倒的に多数だ。教育雑誌の数は雑誌の内で一等多いことは広く知られている。単行本の数も一位から三位とは下らない。
 処が一見教育に関係の深そうな啓蒙活動となると、第一にその観念が世間では一般にハッキリしていないばかりでなく、それが社会に於て占めるべき掛けがえのない位置に就いても少しも、徹底した観念が世間では行われていない。断るまでもなく、啓蒙は教育と同じ観念ではあり得ない。啓蒙というカテゴリーに這入らぬ教育や、教育のカテゴリーに這入らぬ啓蒙が大事な点であるのだ。処がそれが現代の実際社会に於ては簡単に教育というような種類の観念にブチ込まれて了ってさえもいるようだ。だが又実はそこに、この二つのものの根本的な区別の一端も亦、最もよく現われている。教育と云えば日本では多少とも国家機構の上で一定の位置を与えられた公認の社会的機能のことと考えられているのであるが、啓蒙は事実今日の日本では、決してそういう確固とした公認の社会的機能などとは考えられていない。この際啓蒙活動は精々知識の普及とか通俗化とか大衆化とかというような形で、教育家の臨時の片手間仕事位いにしか値いしないことになっているようだ。
 とにかく啓蒙の観念は全く無力だ。啓蒙は他方宣伝とも直接関係があるが、反動的支配者による悪宣伝(デマゴギー)がこれ程日常行われているにも拘らず、日本ではまだ確固たる国家機構による宣伝機関(悪宣伝機関)さえ出来ていないことは、意味があるのだ。実際は大いに行っているが、そのやり方がまだ国家機構上に目的意識化してはいない。ナチスの宣伝省に類するものはまだ存在していないのが事実だ。処でデマゴギーとは悪宣伝即ち又虚偽宣伝のことで、つまり本当の宣伝の社会的内容の入れ替ったものの意味だが、そういうものは取りも直さず、啓蒙の正反対物にも相当するわけだろう。で、啓蒙の反対物たるデマゴギーの方が、国家機構の上で目的意識化された機関を有たない時に、啓蒙や其の宣伝の方の社会的機能も亦、社会的にそういうものとして公認されないのは無理ではあるまい。日本には多数の教育者がいる。それに準じてその悪種であるポプュラライザーやお説教屋も多い。彼等はどれも国家機構の壁に這う処のつたのようなものだ。之に反して、啓蒙家というものは極めて現代日本では数が乏しいのである。彼は国家機構の壁の上で勝手に這い廻ることは許されない事情があるからだ。(私は現代の啓蒙家の代表者として河上肇博士の如きを挙げることが出来ると思う。)
 啓蒙家は教育家でないと云った。社会教育(対社会教育)や成人教育・庶民教育もそれだけでは決して啓蒙ではない。同様に又彼は学者のことでも思想家のことでもないのである――。処が他方に於…

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