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蒼白き巣窟
あおじろきそうくつ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「蒼白き巣窟」 冬樹社
1977(昭和52)年5月15日
初出「雄辯 第十一巻第三号」講談社、1920(大正9)年3月号
入力者磯貝まこと
校正者Juki
公開 / 更新2013-08-15 / 2014-09-16
長さの目安約 91 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 私はいつも其處の路次へ這入ると、あちこちの暗い穴のやうな通り拔けや、墨汁のやうな泥寧の小路から吐き出される種々な階級の人々を見た。職工、學生、安官吏、または異體の知れない樣々な人々が、みんな醉つぱらつて口々に何かしら怒鳴つたり喚いたりしながら、同じ路次から路次を繩のやうにぞろぞろと群をつくつて、熱心な眼つきで、その路次の家々の障子硝子の内に、ほんのりと浮いてゐる白い顏を見詰めてはあるいてゐた。家々の軒燈はあまり明るくないため、燐寸箱を積み重ねたやうにぎつしり詰つた路次は、晝間も日光がととかないので、いつも濕々してゐる溝ぎわの方から、晩方の家々の炊事の煙が靄とも霧とも分らない一種の茫とした調子で、そこらの板圍ひや勝手口の風通しのわるいあたりをうす暗くしたばかりでなく、障子硝子の窓ぐちに座つてゐる女等の顏をも暈して見せてゐた。ちやうど路次を通る人々はすこし背をかがめるやうにすると、内部から硝子窓にぴつたりと顏をおしつけるやうにして座つてゐる女等の眼が、何よりも最初に眺められるやうになつてゐた。かういふ巣窟にありがちな家々の藍ばんだ何だか埃つぽい薄暗さは、假面のやうに濃く白い顏をくつきりと浮き上らせ、ことに魚族のやうな深い澄んだ光をひそませた女等の眼が、じつと、わいわい騷いだり惡口をついたりしながら行く人々の上に注がれてゐた。それはまるで眼ばかりで働くやうに利巧で艷々しく、その上、それ自身が微笑をふくんで、くらい暗のなかにほんのりと漂ふてゐるやうな、しづかな誘惑の味深い光をもつてゐた。
 ときとすると、硝子の窓ぎわに温かさうな女の呼吸が、いつの間にか寒い晩など、よく硝子の地をかすませたりして小さい露をつづつてゐる上を、そつと指さきで何か無駄書きをしてゐる女等もゐた。そうかと思ふと、まだ宵のほどになつたばかりだのに、もう幾人かの客を濟した亂れた髮姿で、上から壓し潰された蝉のやうに平つたくなつて、窓ぎわにつツ伏して睡てゐる女もゐた。さういふ疲れきつた睡眠状態にゐながらも彼女らは往々機械的に路次の方へ聲をかけた。彼女らの方からは、いつも其小さい硝子窓から見上げるやうにすると逞しい男らの黝ずんだ姿が、家とは反對な高みをもつた道路の上に、幾本ともない太い嚴丈な棒杭のやうに、あるものは永い間佇んだりしてゐるのが見えた。
「あなた…あなた……。」
 と、その聲はわかやいだ艷めいた手で、いきなり□□をまさぐるやうな美しい動かない力で、いつも人々のすべてを刺戟した。ときには暗い行止まりかと思はれるほどのゴミ箱のかげからも、ひよんな支那料理の一品賣の屋臺の裏のほうからも、または、じいい…じいい…とおけらの泣いてゐる溝水にうつる障子窓からも、やさしい手で喉首をなでまはすやうに女らしい疳尻りをふくんでは、あちこちから、まるで蜂の巣換りどきのやうに、慌しく呼ばれたり呼ばれたりしてゐた。な…

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