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文芸評論の方法について
ぶんげいひょうろんのほうほうについて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集第四巻」 勁草書房
1966(昭和41)年7月20日
初出「文芸」1937(昭和12)年6月号
入力者矢野正人
校正者青空文庫(校正支援)
公開 / 更新2012-10-06 / 2014-09-16
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今日の日本の文芸批評の姿には、見渡したところ二群のものを区別出来るようである。一つは作家による文芸批評であり、も一つは評論家による文芸批評である。尤もこう云っただけですでに、多分の註釈が必要となるのはまことに遺憾であるが、一体評論家は一種の作家でないかどうか。最近日本では創作的な評論と云ったようなものも推賞されている。評論が創作でないというのが元々変な云い方だが、とに角小説や戯曲や詩というジャンルを創作と呼び、この創作をやる人間を作家と呼ぶのが習慣なわけだが、創作と評論、作家と評論家、はそう簡単に対立させられないという点が吾々の話を初めからお終いまでつき纏うのである。
 その創作的な評論というのが、特に保田与重郎の夫のような詠嘆文を意味するなら、簡単に無視していい問題だが、文芸評論(一般に評論)も亦文芸創作の一つのジャンルだという意味だとすると、容易ならぬ問題だ。だがこの問題はこの話の終る時初めて解かれるべきものとしよう。さし当り作家と評論家との区別を便宜的に判ったものとして、さて、作家自身が評論を書く場合と、専門の評論家が評論を書く場合とでは、大へん様子が違っていることにまず気がつく。
 日本では作家の数は数え切れない程であるが、文壇ジャーナリズムに登場して来る専門の文芸評論家の数は可なり限られている。処がどんな作家でも文芸評論乃至文芸批評を頼まれないとは限らないし、頼まれれば自分は文芸評論家でないから書かないと云って断わる作家は少ないようだ。暫く前まで、いや今日でも多分にそうだが、専門評論家が少ないということもあって、文芸評論の大部分が(特に新聞などではそうだ)、作家の手になったものだった。尤も作家の内では、評論を殆んど書かない者も少なくはない。島崎藤村や谷崎潤一郎が新聞や雑誌に文芸評論を書くということは何か一寸そぐわないようにも考えられる。それから又作家であると同時に評論家である場合も、大変多い。中野重治、中条百合子、窪川鶴次郎、森山啓(後の二人の詩人兼評論家は最近「作家」の仲間入りをしたとも云うことが出来よう)、貴司山治、其の他、大まかに云った左翼にぞくしていた人達に、この傾向の著しいことは、意味のあることだが、そうでない作家にも若い時代としては阿部知二とか伊藤整とかいう評論家兼任の者が少なくない。さてこの評論家兼任の作家と評論をやらぬ作家とを差し引いた余りの作家は(?)評論家でなくしてしかも評論をやる作家なわけであるが、この作家的評論と評論家の評論とでは大分趣きが変っていると云うのである。
 例えば林房雄を取ろう。彼は決して評論を書かないのではない。だが彼は又決して評論家でもないし、評論家兼任の作家でもない。併し、ではなぜ彼は評論家ではないか、評論を書かないではないに拘らずなぜ評論家と世間は見做さないのか、単に評論の字数の多少の問題ではあるまい。…

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