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所謂批評の「科学性」についての考察
いわゆるひひょうの「かがくせい」についてのこうさつ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集第四巻」 勁草書房
1966(昭和41)年7月20日
初出「文芸」1938(昭和13)年1月号
入力者矢野正人
校正者青空文庫(校正支援)
公開 / 更新2012-10-10 / 2014-09-16
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 単に文芸批評だけではない。総ての評論風の批評は直接感受した印象の追跡を建前とする。ただその印象が芸術的な印象ではなくて、理論的印象や科学的印象である時、普通これを印象とは呼ばないまでで、この場合、印象の持っている印象らしい特色には別に変りがない。印象はそれを感受する人間の感覚的性能如何によって大変違って来る。印象とは刺戟に対する人格的反作用のことであろうが、そうした特色には、科学的労作を批評する場合にも極めて大きな役割を演じている。科学に於ける所謂素人や、或る意味に於ける独学者が、往々暴露する欠陥は、正にこの科学的理論的印象能力の薄弱さに関っている。本質的に高い仕事と本質的に低い仕事とを甄別するのは、この印象の確実さである。印象はその人の眼の高さのバロメーターである。この印象の追跡が一般的に批評だ。
 芸術(作品、作家、芸術、現象、を含めて)に対する批評が、印象の追跡であることは、改めて云う必要はない。或いは又、いく度云っても云い過ぎる心配のないことでもあると思われる。――でこの意味に於て、批評は凡て印象批評であると云ってよく、所謂「印象批評」なるもののヒドラのような不屈振りも亦、ここに由来する。この点与えられ想定されている条件である。問題はいつもその先から発生する。ここから先が、初めて批評の問題になるのである。
 まず印象の追跡ということである。だが印象自身と印象の追跡ということとは、ハッキリ別のことではない。作品を読むという活動の意味にも色々あろうが、優秀な読者は二度も三度も同じ作品を読むだろう。若い時読んだものを年取ってから読み直すということはごく普通の現象だ。一遍読んですぐ又読み直すという人もいる。そうしないまでも、前へ戻りながら念を押して読むということは、誰でも必ずやっていることだ。途中でやめたり、飛ばして読んだり、新聞小説など逆に読んで行ったり(私はかつて偶然そういう機会を持ったが作家のかくされた制作過程を知るには大変いい参考になるようである)、そういうことは、散文などでは必ずしも乱暴な読み方とは云えないらしい。もし、随意に繰り返すことが出来るということが散文の特色だとすれば、こういう読み方にも意味があるだろう。して見ると、印象と云っても決して一遍カッキリの印象ばかりを問題にするべきではない。
 もし一遍カッキリの印象を直接印象と呼ぶなら、ここで問題になる印象は、抑々、必ずしも直接印象ではないと云わねばならぬ。直接印象でないとすれば、云わば間接印象(?)、と云って悪ければ、念を押され確かめられ点検された印象なのだ。即ちこの印象は実はすでに追跡された印象だ。印象があって、之を追跡するだけではなく、所謂印象そのものが、すでに追跡された印象だ。心ある読者は、単に読むという活動自身に於て、印象追跡者である。批評家である。批評家とは、そういう最も普通な、…

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