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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
副題031 濡れた千両箱
031 ぬれたせんりょうばこ
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第十三卷 焔の舞」 同光社磯部書房
1953(昭和28)年9月5日
初出「オール讀物」文藝春秋社、1934(昭和9)年8月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-06-16 / 2014-09-16
長さの目安約 35 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 深川の材木問屋春木屋の主人治兵衞が、死んだ女房の追善に、檀那寺なる谷中の清養寺の本堂を修理し、その費用三千兩を吊臺に載せて、木場から谷中まで送ることになりました。
 三千兩の小判は三つの千兩箱に詰められ、主人治兵衞の手で封印を施し、番頭の源助と鳶頭の辰藏が宰領で、手代りの人足共總勢六人、柳橋に掛つたのは丁度晝時分でした。
「惡い雲が出て來たね、鳶頭、此邊で夕立に降り込められるより、一と思ひに伸しちや何うだらろう」
 番頭の源助はさう言ひながら、額の汗を拭き/\、お通の水茶屋の前に立ちました。
「この空模樣ぢや筋違までも保ちませんぜ。お通は仕度をして居る筈ですから、兎も角晴らしてから出かけませう」
 辰藏は吊臺を擔いだ人足を顎で招くやうに、お通の茶屋の暖簾をかき上げました。
 同時に、ピカリ、と凄まじい稻光り、灰色に沈んだ町の家並が、クワツと明るくなると、乾ききつた雷鳴が、ガラガラガラツと頭の上を渡ります。
「あれツ」
 界隈で評判の美しいお通は、――いらつしやい――と言ふ代りに、思はず悲鳴をあげて了ひました。赤前垂、片襷、お盆を眼庇に、怯え切つた眼の初々しさも十九より上ではないでせう。
 丁度その時、――
「喧嘩だツ」
「引つこ拔いたぞ」
「危ないツ、退いた/\」
「わツ」
 といふ騷ぎ。兩國廣小路の人混みの中に渦を卷いた喧嘩の輪が、雪崩を打つて柳橋の方へ碎けて來たのでした。
「何うした、鳶頭」
「喧嘩ですよ、浪人と遊び人で」
「荷物が大事だ、中へ入れろ」
「へエ――」
 葭簀張の水茶屋で、喧嘩にも夕立にも、閉める戸がありません。三千兩の吊臺はその儘土間を通つて磨き拔いた茶釜の後ろ、――ほんの三疊ばかりの茣蓙の上に持込まれました。前から豫告があつて、時分時には春木屋の荷物が休むことになつて居たので、お通も、お通の母親も、これは文句がありません。
 尤も吊臺を擔ぎ込んだ一と間は、直ぐ神田川の河岸つぷちで、開け放した窓から往き交ふ船も見えようといふ寸法ですから、凉みにはまことに結構ですが、物を隱すにはあまり上等の場所ではありません。
 鳶頭の辰藏は、吊臺の上に掛けた油單を引つ張つて、一生懸命、千兩箱を隱すと、番頭の源助はその前に立ち塞つて、精一杯外から見通されるのを防ぎました。
 續いて、もう一と打、二た打、すさまじい稻光りが走ると、はためく大雷鳴、耳を覆ふ間もなく篠突くやうな大夕立になりました。
 向う側の家並も見えないやうな雨足に叩かれて、ムツと立ち昇る土の香、――近頃の東京と違つて電氣事業も避雷針もない江戸時代には、びつくりするやうな大夕立が時々あつたと言ふことです。
 まだ六月になつたばかり、暑さは例年にないと言はれましたが、それにしても、眞晝の大夕立は滅多にないことでした。
 お蔭で素つ破拔きに始まつた大喧嘩も流れて、夥しい彌次馬は、蜘蛛の子を…

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