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四十年前のエキスカージョン
しじゅうねんまえのエキスカージョン
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「和辻哲郎全集 補遺」 岩波書店
1978(昭和53)年6月16日
入力者岩澤秀紀
校正者火蛾
公開 / 更新2015-12-26 / 2015-11-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 このごろは大和の国も電車やバスの交通が大変便利になって来たので、昔に比べると、古寺めぐりはよほど楽になったようである。欲張って回れば一日の内にかなり方々の古い寺々を見ることができるであろう。しかし人間が古い芸術品などに接してその美しさを十分に感受し得る能力は、そう無限にあるものではない。明るいうちに体をその場所へ持って行きさえすれば、どこでも同様に、同じ新鮮な気持ちで味わえるというわけではない。その点は食物の場合も同じであろう。いくらうまいもの屋が並んでいるからといって、それを片端から味わって歩くことはできない。一軒の料理を味わえば、あとはまた空腹になる時まで待たなくては、次の料理を同じように味よく味わうわけには行かない。もちろんそういう能力は人によって差異のあるものではあるが、しかしどれほど人並みはずれた食欲を持つ人でも、その食欲に限度がないわけではない。そうして限度まで味わえば、あとは食ってもうまくはないのである。それと同じで、感受能力の限度を超えてしまえば、たとい体が無比の傑作の前に立ち、眼がその傑作を眺めているにしても、その美しさはいっこうに受用されず、いわゆる「見て見ず」という状態になる。そういう見物は全然むだである。
 その点を考えると、一日のうちにあまり方々へ回ることは考えものである。なるべく徒歩を混じえて、ゆっくり時間をかけて、それで見て回れる程度に限る方が、自分の感受能力を活発に働かせるゆえんとなるであろう。
 そういうことを考えていると、わたくしは四十何年か前のエキスカージョンをなつかしく思い出してくる。それは東京大学の文学部の美術史学科の学生や卒業生たちの修学旅行なのであるが、その当時から修学旅行とは呼ばず、エキスカージョンと呼んでいた。三月の末から四月の初めへかけて、四五日の間に京都と奈良とを見学するのである。これは大正になってから始まったので、わたくしの在学中にはなかった。わたくしが学生として聞いた美術史の講義は、関野貞先生の日本建築史、岡倉覚三先生の泰東巧芸史、滝精一先生の日本絵画史などであったが、その時は滝先生は講師であって教授ではなかった。わたくしが大学を卒業した後、大正元年か二年かに教授になられたのである。エキスカージョンが始まったのはその後であろう。それがいかにも楽しそうであったし、またわたくしにはまだ見ないものが多かったので、たぶん大正の五年か六年のころに、滝先生に頼んで参加させてもらったのであった。
 そのうち一日は奈良の寺々を回った。東大寺と春日神社と新薬師寺と興福寺とで一日が暮れたように思う。が、どういうわけか、興福寺の南円堂を見た時のことだけをはっきりと覚えていて、あとはぼんやりとしている。戒壇院や三月堂の内部を見物したのはこの時が初めてであるのに、その時の印象がはっきりと残っていない。南円堂はその後見ないが、…

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