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ある幸福
あるこうふく
原題EIN GLÜCK
著者
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-05-21 / 2015-04-03
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 静かに! ある魂の中をのぞいて見ようと思うのだ。まあいわば大至急で、通りすがりに、ほんの五六ペエジの長さだけだが。なにしろわれわれはおそろしく多忙なのだからね。フロレンスから、古い時代から、われわれはやって来たのだ。あっちでは、最後の厄介な事件が持ちあがっている。それが片づいたら――さあどこへ行くかなあ。宮廷へでも、どこかの王城へでも行くか――誰が知ろう。ふしぎな、微光を帯びた事柄が、まさにまとまりかかっている。――アンナ、かわいそうな小さな男爵夫人アンナ、われわれはお前のためにゆっくりしている暇がないのだ。―― ――
 三拍子と杯の音――喧騒、濛煙、うなり、そして舞踏の足どり……みんなはわれわれを識っている。われわれの小さな弱味を識っている。人生がその素朴な祝典を催す場所に、われわれがひそかにかくも喜んで低徊するのは、苦痛というものが、そこで最も深刻な最もやるせない眼色をするからなのであろうか。
「候補生。」と騎兵大尉ハリイ男爵は、舞踏の足をとめて、広間いっぱいに声をひびかせた。まだ右の腕で相手の婦人を抱いたなり、左の手を腰にあてて突っ張っている。「そりゃワルツじゃなくって葬式の鐘だぜ、おい。君はどうもまるっきり拍子の感じがないんだね。ただ始終そうやって泳いだり、ふらふら浮いたりしているだけじゃないか。フォン・ゲルプザッテル少尉にまた弾いてもらおう。そうすれば、まあリズムだけは出てこようからな。引っ込みたまえ、候補生。踊りたまえ、もしピアノよりうまいんなら。」
 そこで士官候補生は立ちあがって、拍車をかたんと合わせて、無言のままフォン・ゲルプザッテル少尉に演奏壇を譲った。少尉はすぐに大きな、白い、指のひどくひらいた手で、かちかちぶうぶう鳴る、そのピアノを弾きはじめた。
 ところでハリイ男爵は、拍子の感じを――ワルツの拍子と、マアチの拍子と、快活と誇りと幸福とリズムと勝者の心とを、ちゃんと備えているわけなのである。金の紐飾りのついた驃騎兵服が、苦労や反省なんぞみじんも現われていない、若々しい上気した顔に、すばらしく似合っている。顔は金髪の人によくあるように、うす紅く日に焼けている。それでいて、頭髪も口髭も鳶色に見える。これが婦人たちを刺戟する点なのである。右頬の上にある赤い傷痕は、彼の磊落な風貌に、大胆不敵な表情を与えている。それは刀創なのか、または落馬でもしてできたものなのかわからない――が、いずれにしてもみごとなものである。いま彼は神のごとくに踊っている。
 しかるに候補生は――もしハリイ男爵の文句を譬喩的な意味で使っていいなら――泳いだりふらふら浮いたりしている。瞼があまりひどく長すぎる結果、彼はどうしても尋常に眼をあけることができない。それに軍服も少しだぶついていて、なんだか工合が変である。だからどうしてこの男が、軍隊生活という行路にまぎれ込んだの…

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