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トビアス・ミンデルニッケル
トビアス・ミンデルニッケル
原題TOBIAS MINDERNICKEL
著者
翻訳者実吉 捷郎
文字遣い新字新仮名
底本 「トオマス・マン短篇集」 岩波文庫、岩波書店
1979(昭和54)年3月16日
入力者kompass
校正者酒井裕二
公開 / 更新2015-04-18 / 2015-03-08
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 河岸小路から、急な上り坂になって、市内へ通じている往来の一つに、灰色通りというのがある。その通りの中程、河のほうから来れば右手に、四十七番地の家が立っている。幅の狭いくすんだ色の建物で、隣近所の家々とちっとも変ったところはない。この建物の地階には、套靴やひまし油まで売る荒物屋がある。猫のうろついている中庭を見通しながら、玄関口を入って行くと、狭い踏み減らされた、なんともいえずうっとうしい貧乏臭いにおいのただよう木造の階段が、上へ通じている。二階の左手には指物師が、右手には産婆が住んでいる。三階の左手には靴直し、右手には、階段に足音が聞えると、すぐ大声で歌いはじめる一人の婦人が住んでいる。四階では、左手の住居は空で、右手には苗字をミンデルニッケル、おまけに名前をトビアスという男が住んでいる。この男について一つの話がある。それはなぞのような、とても考えられないほど破廉恥な話だから、私はぜひ語ろうと思う。
 ミンデルニッケルの外貌は、突飛で風変りで滑稽なものである。例えば彼が散歩をしている時なぞに、痩躯をステッキで支えながら、往来を進んでゆくところを見ると、彼は真黒ななりをしている。しかも、頭から足の先まで黒ずくめなのである。旧式な曲った、けば立ったシルクハットと、窮屈そうな、古さで光っているフロックコオトと、裾のほうがささくれていて、半長靴のゴムの縫込みが見えるほど短かい、これも劣らず見すぼらしいズボンとを着けている。しかしこの服には、この上なくきれいにブラシのかかっていることを、ことわっておかねばならぬ。細い頸は、低い折襟から突き出ているせいで、いよいよ長く見える。半白の髪は、ぺたりとこめかみへかぶさるようになでつけてあって、シルクハットの広いつばが、かみそりの当った土気色の顔に、影を作っている。顔にはこけた頬と、めったに上を向かない、ただれた眼と、垂れさがった口の両端まで、陰気に鼻から走っている、二本の深い皺とがある。
 ミンデルニッケルはめったに家をあけないが、それにはそれでわけがある。というのは、彼が往来に姿を現わすや否や、すぐに子供が大勢馳せ集まって来て、いつまでもぞろぞろ跡をつけながら、笑ったり茶化したり、「やあい、やあい、トビアスやい。」といって歌ったり、時にはまた、上着を引張ったりすると、人々は門口へ出て来て、おもしろがって見ているのである。彼自身はしかし、別にそれをとめようともせず、おずおず眼を配りながら、肩を高く挙げて、首を前に突き出したなり、歩いてゆく。ちょうど傘なしでにわか雨の中を急いでゆく人のような恰好である。しかもまっこうから笑い立てられているのに、彼は門口に立っている人たちの中のだれかしらに、時々へりくだった丁寧さで挨拶する。すこしたって子供たちも追うのをやめ、彼を見知っている人もなくなり、彼のほうを見る人もほとんどないようになっ…

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