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軒もる月
のきもるつき
作品ID56010
著者樋口 一葉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「樋口一葉全集第二卷」 新世社
1941(昭和16)年7月18日
初出「毎日新聞」1895(明治28)年4月3、5日
入力者万波通彦
校正者岡村和彦
公開 / 更新2014-12-11 / 2014-11-14
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 我が良人は今宵も歸りのおそくおはしますよ、我が子は早く睡りしに歸らせ給はゞ興なくや思さん、大路の霜に月氷りて踏む足いかに冷たからん、炬燵の火もいとよし、酒もあたゝめんばかりなるを、時は今何時にか、あれ、空に聞ゆるは上野の鐘ならん、二つ三つ四つ、八時か、否、九時になりけり、さても遲くおはします事かな、いつも九時のかねは膳の上にて聞き給ふを、それよ今宵よりは一時づゝの仕事を延ばして此子が爲の收入を多くせんと仰せられしなりき、火氣の滿たる室にて頸やいたからん、振あぐる槌に手首や痛からん。
 女は破れ窓の障子を開きて外面を見わたせば、向ひの軒ばに月のぼりて、此處にさし入る影はいと白く、霜や添ひき來し身内もふるへて、寒氣は肌に針さすやうなるを、しばし何事も打わすれたる如く眺め入りて、ほと長くつく息月かげに煙をゑがきぬ。
 櫻町の殿は最早寢處に入り給ひし頃か、さらずば燈火のもとに書物をや披き給ふ、然らずば机の上に紙を展べて靜かに筆をや動かし給ふ、書かせ給ふは何ならん、何事かの御打合せを御朋友の許へか、さらずば御母上の御機嫌うかゞひの御状か、さらずば御胸にうかぶ妄想のすて處、詩か歌か、さらずば、さらずば、我が方に賜はらんとて甲斐なき御玉章に勿躰なき筆をや染め給ふ。
 幾度幾通の御文を拜見だにせぬ我れいかばかり憎しと思召すらん、拜さば此胸寸斷になりて常の決心の消えうせん覺束なさ、ゆるし給へ我れはいかばかり憎きものに思召されて物知らぬ女子とさげすみ給ふも厭はじ、我れは斯る果敢なき運を持ちて此世に生れたるなれば、殿が憎しみに逢ふべきほどの果敢なき運を持ちて此世に生れたるなれば、ゆるし給へ不貞の女子に計はせ給ふな、殿。
 卑賤にそだちたる我身なれば初めより此上を見も知らで、世間は裏屋に限れるものと定め、我家のほかに天地のなしと思はゞ、はかなき思ひに胸も燃えじを、暫時がほども交りし社會は夢に天上に遊べると同じく、今さらに思ひやるも程とほし、身は櫻町家に一年幾度の出替り、小間使といへば人らしけれど御寵愛には犬猫も御膝をけがすものぞかし。
 言はゞ我が良人をはづかしむるやうなれど、そも/\御暇を賜はりて家に歸りし時、聟と定まりしは職工にて工場がよひする人と聞きし時、勿躰なき比較なれど我れは殿の御地位を思ひ合せて、天女が羽衣を失ひたる心地もしたりき。
 よしや此縁を厭ひたりとも野末の草花は書院の花瓶にさゝれんものか、恩愛ふかき親に苦を増させて我れは同じき地上に彷徨はん身の取あやまちても天上は叶ひがたし、若し叶ひたりとも[#挿絵]は邪道にて正當の人の目よりはいかに汚らはしく淺ましき身とおとされぬべき、我れはさても、殿をば浮世に譏らせ參らせん事くち惜し、御覽ぜよ奧方の御目には我れを憎しみ殿をば嘲りの色の浮かび給ひしを。
 女子の太息に胸の雲を消して、月もる窓を引たつれば、音に目ざめて泣出づ…

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