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妖氛録
ようふんろく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中島敦全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年5月24日
初出「中島敦全集 第四巻」文治堂書店、1959(昭和34)年6月刊
入力者小池健太
校正者小林繁雄
公開 / 更新2014-03-28 / 2014-09-16
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 口数の寡い、極く控え目勝ちな女であった。美人には違いないが、動きの少い、木偶の様な美しさは、時に阿呆に近く見えることがある。この女は、自分故に惹起される周囲の様々な出来事に、驚きの眼を瞠っているように見えた。それらが、自分の為に惹起されたのだということに、一向気付かぬようにも思われる。気付きながら少しも気付かぬように装っているのかも知れぬ。気付いたとしても、それに誇を覚えているのか、迷惑を感じているのか、愚かな男共を嘲っているのか、それは誰にも分らぬ。唯、そんな傲りの気配だけは少しも表に現れない。
 つくり物のように静かな顔に、時として、不意に、燃えるような華やかさの動き出すことがある。雪白の冷たい石龕の内に急に灯がともされたように、耳朶は見る見る上気して、紅玉色に透り、漆黒の眸子は妖しい潤いに光って来る。内に灯のともっている間だけ、此の女は世の常の女ではなくなる。斯うした時の此の女を見た少数の男だけが、世の常ならぬ愚かさに我をも忘れるものらしい。
 陳の大夫御叔の妻夏姫は、鄭の穆公の女に当る。周の定王の元年に父が死に、その後を継いだ兄の子蛮も直ぐに翌年変死した。陳の霊公と夏姫との間は、丁度其の頃から続いているのだから、既にかなり久しいことである。荒淫の君主に強いられて斯う成ったのではない。凡て斯うした事は、夏姫にとって、水が低きに流れるように自然に成るのである。興奮もなく、後悔もなく、唯何時の間にか成って了ったという外はない。夫の御叔は、典型的なお人よしの意気地無しであった。うすうす気付いてはいたらしかったが、さて気が付いた所で、どうなるものでもない。夏姫は、夫に済まなさを感じるでもなく、さりとて、軽蔑を感じるでもない。ただ、以前より一層心優しく夫をもてなすようになった。
 或る時、霊公が朝にいて、上卿の孔寧と儀行父とに戯れ、チラリと其の衵服を見せた。媚めかしい女ものの肌着である。二人はギョッとした。孔寧も儀行父も、実は其の時、それと同じような夏姫の肌着を身に着けていたからである。霊公は知っているのだろうか? 勿論二人は、お互い同志のことを良く承知している。二人にだけ夏姫の肌着を見せた所からすれば、霊公も既に二人のことを知っているのではなかろうか? 主君の戯れに、諂諛の笑を以て応えて良いものか、どうか。二人は恐る恐る霊公の顔色を窺った。二人の見出したものは、底意の無さそうな、唯淫らな、脂下った笑い顔である。二人はホッと胸を撫下した。数日後には、二人とも亦霊公に自分等の媚めかしい肌着を見せる迄、大胆になって来た。
 洩冶という[#挿絵]直の士が霊公に直言した。「公卿淫を示さば、臣効うこと無からんや。且つ、聞令からず。君、其れ、之(夏姫の肌着)を納めよ。」(公卿が淫を示せば、下々の者も之に効う懼れがあります。それに第一、外聞も悪い事ですから、何卒、そういう真…

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