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初めて秩父に入った頃
はじめてちちぶにはいったころ
作品ID57033
著者木暮 理太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山の憶い出 下  」 平凡社ライブラリー、平凡社
1999(平成11)年7月15日
初出「旅」1937(昭和12)年10月
入力者栗原晶子
校正者雪森
公開 / 更新2015-12-04 / 2015-09-01
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 当初、山を愛好する一部の人々の間にのみ行われていた登山が、一般世間からは物ずきの骨頂と蔑視されながらも、勇敢に口や筆で夫等の人々が宣伝につとめた努力は報いられて、次第に同好者を獲得することに成功し、後年の隆盛を想わせる曙光にも似た明るい前途を約束し得るに至ったことは、誠に愉快なことであった。
 其頃の登山は言う迄もなく夏季に限られていた。何せ交通不便という一大障碍があったので、目的とする山の麓迄辿り付くのが一仕事であった。たとえば北アルプスに登るには、最も交通の便が開けていた大町あたりへ行くにしても、東京からは信越線の篠ノ井で松本行に乗換え明科で下車して歩くか、人力車又は馬車を利用したものである。それも明治三十六年以後のことで、以前は信越線の小諸か上田あたりで下車し、和田峠なり保福寺なりを越えて、松本平へ出る外に方法がなかった。中央線が松本へ直通したのは三十九年六月で、直江津富山間はずっと遅れた大正二年であった。この容易に山に近づくことを得なかったことは、冬季登山が行われなかった最大の原因の一つであったろうと思う。
 一年を夏季と限られ、更に夏季を幾日と限られた短期の間に、登らなければならない山が何と多かったことか。誰もが今年の山旅から帰れば、すぐに翌年の計画を立て、「来年は何山に登るぞ」と仲間に吹聴して、先占権を主張したものだ、仲間も笑って之を容認し、抜け懸けの功名を争うようなことはしなかった。優良な案内人夫は何処でも得られるという訳のものではないので、前年から約束して置いた、素朴な山人達は他から利を以て誘われても、無断で約束に背くことなどは殆どなかったし、誘うような人も亦少なかった。
 しかし張り切った心に待つ一年が如何に楽しいものであったとしても、ああ何とまた長いものであったろう。この辛抱のお蔭で登山の快は倍加した訳でもあるが、出来ることなら季節を選ばず山へ行きたい、そして絶え間なき心の渇を少しずつでも癒やしたい。こういう願望が抵抗し難い勢でむくむくと擡頭したのは私一人ではなかった、よし行こう。夫には比較的交通が便利で、割合に近い処であることが必要だ、しかも高度は少くとも二千米以上で、処女の地域が広ければ広い程よい。そこで地図を物色する、丹沢、道志、御坂山脈の諸山は、惜しい哉高度が低い、奥上州の山は交通の不便からてんで問題にならなかった、残るは秩父山地のみである。
 陸地測量部の輯製二十万分一図が世にも頼み甲斐なきものであることは、苦い経験を嘗めたことのある人は誰も知っている。されど之に代る一般向きの良地図がないので止むを得ず使用していた。今其甲府図幅が手許にないのでうろ覚えではあるが、金峰山は二千五百何米と記入してあった。其他の山は多く標高を欠き、唯雁坂峠や大洞山(飛竜山)及雲取山などは、孰れも二千米以上であったように思う。それで行くならば秩父がよ…

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