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百科事典美談
ひゃっかじてんびだん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第八巻」 岩波書店
2001(平成13)年5月7日
初出一「図書 第六十八号」岩波書店、1955(昭和30)年5月5日<br> 二「図書 第六十八号」岩波書店、1955(昭和30)年5月5日<br> 三「図書 第八十二号」岩波書店、1956(昭和31)年7月5日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2017-06-10 / 2017-05-09
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

『大英百科事典』について、私は二つ美談を知っている。ともに札幌で、自ら見聞したことで、又聞きの話ではない。少し話を面白くしてあるが、本筋には少しも捏造がはいっていない。本当にあった話であるから、そのつもりでお読みを願いたい。



 北大の予科に、もうとっくに亡くなられたが、A先生という物理の老先生がおられた。たしか中村清二先生と同期くらいに、東大の物理学科を出られた方である。
 もう二十年以上も前のこと、北大に新設された理学部へ赴任して間もない頃、私はある晩、A先生のお宅へ伺ったことがある。大先輩に敬意を表するためである。
 古いお宅で、応接間も大分古風な部屋であった。一晩ゆっくりお邪魔をして、「新鋭の長岡半太郎講師や優秀な本多光太郎学生」の昔話などを聞いて、たいへん面白かった。
 ところが、この応接間には、如何にもこの部屋にふさわしい古風な『大英百科事典』が、並んでいた。版のまだ若い部厚な昔の『大英百科事典』である。インディアン・ペーパーなどまだ使い出さない、懐かしい本物のやつである。その頃でも、『大英百科事典』を自分でもっているのは珍しかったので、「それは先生のですか」と、失礼な質問をした。
 そうしたら、A先生は、「実は、大失敗をしたんですよ。つい若気の至りで、こんなものを買ってしまいましてね」と前置をして、次のような話をされた。
 何でもA先生が、東大を出て、ここの北大の予科へ赴任されて間もない頃、というと、今から五十年くらいも前の話である。何かの拍子に、思わぬ金が少しはいったことがあったそうである。いくらだったか忘れたが、丁度この『大英百科事典』を買うのに、必要にしてかつ充分な金額であった。それで思い切って、これを買おうと思い立たれた。
 ところが、丁度その時に、全く別な申し込みがあった。それはA先生が今借りておられる土地を含めて、周囲の一画を、まとめて買わないか、という話なのである。札幌は街が碁盤の目に切ってあって、一画は一町四方になっている。即ち三千六百坪である。それがまた因果と、百科事典と同じ金額なのである。五十年前の札幌の地価は、その程度のものであった。
 それで先生は、大いに迷われたそうである。しかし「若かったもんでね。学者になるのに土地は要らないが、『大英百科事典』は要るという結論に、到頭なっちゃったんだ。あの時土地を買っておけば、今頃大金持になっていたんだが。こんなもの五十円にも売れないよ」という話であった。
 札幌は、今たいへんな開発ブームで、ビルがこの数年間に何十と建っている。映画館は二十七とかになったそうであるが、また新しく七百坪とかの大映画館が、建つそうである。それが昔A先生が買い損ねた土地のごく近くである。この土地の買値は、何と一坪十万円ということである。そうすると、A先生の『大英百科事典』は、三億六千万円の値打があった…

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