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人道の正体
じんどうのしょうたい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「進化と人生(上)」 講談社学術文庫、講談社
1976(昭和51)年11月10日
初出「中央公論」1906(明治39)年1月
入力者矢野重藤
校正者y-star
公開 / 更新2017-01-09 / 2016-12-09
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 世の中には便宜上つねに用いる語で、しかも便宜上、その意味を判然と定めずにおく語がいくらもある。人道なる語もその一つで、列国間にこの語を用いる場合のごときは、あまり深くその定義を穿鑿せぬほうが都合がよろしい。しかしながら一般に個人間に用いるときには、人道なる語は「多少の労力あるいは金銭を費やして他の人あるいは人に近き動物の苦しみを減ずること」すなわち利他同情の行為を意味するように見受けるから、ここにはこの意味に取って人道なるものの正体をいささか論じてみたいと思う。
 まず第一に上述のごとき人道なるものは実際に存するものか、または幽霊のごとくに単にうわさだけにとどまって、実際には存在せぬものかと考えてみるに、もし各人が人道を行なうならば世の中は毫も争いがなく、真に平和極楽の黄金世界であるべきはずなるに、実際を見ると世間は全くその正反対で、他人はいかに迷惑しようとも、自分さえよろしければ差支えないという主義が行なわれ、大にしては国と国との間の戦いより、小にしては記念絵端書を買わんとする争いにいたるまで、他人を蹴飛ばし踏み倒しても、ただ自分さえ先へ進み出て目的を達すればよいというありさまで、法律の制裁だになくば、わが靴に塗る脂をえんがために他人を打ち殺すことをもあえて辞せぬような人がどこにも充満し、実に人間とは利己心の凝固結晶したものかと思われるほどであるゆえ、かかる方面のみを見ると人道なるものはどこに存するかと疑わざるをえぬような心地がする。
 しかしながら、また広く他人の行為を観察し、かつ自分の内心を顧みると、他人の悲しみを聞けばともに悲しくなり、他人の苦しみを見れば、これを助けたく感ずる利他同情の心の存在していることもまたたしかな事実である。仕合せの悪い悲惨な境遇にある人の話を聞けば、自然に涙が出て、どうにかして救うてやりたいとの心が生じ、重い荷をひく馬が坂で、苦しんでいるところを見れば、実に憐れである、助けてやりたいとの気になるが、この同情の心は決して表面を飾るための偽でもなく、教えられて覚えた結果でもなく、真に生まれたときから備わっている本能的性質である。その程度は各人決して一様ではないが、とにかくかかる性質がある程度において、たれの心の中にも存在することだけは決して疑うべからざることで、これがすなわちいわゆる人道なるものの源である。現今のありさまから考えてみると、人間には利他同情の心は利己心に比してはきわめて少量に存することも断言ができよう。約言すれば人間の心は九割九分の利己心と一分の利他心とを備えているのである。
 かくの如く人間は自分のためのみを思う利己心と、他人のためをも思う利他心とを同時に兼ね備えているのであるから、そのなすことには非常なる矛盾がある。ただ一発で大きな軍艦を轟沈して数百人の将卒を同時に殺すための水雷を毎日盛んに製造している側には…

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