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温泉1
おんせん1
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第二巻」 岩波書店
2000(平成12)年11月6日
初出「中外商業新報」1939(昭和14)年1月12日~15日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2016-12-02 / 2016-09-09
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は温泉が非常に好きである。少年時代を北陸の温泉地に送ったせいかも知れないが、今でも少し身体の調子が悪い時などは、いつも温泉に行ったら直ぐに元気になるのだろうという気がする。元気な時はまたそれなりに、夏休みなどには気の向いた本でも持って、山の温泉へ行って見たいと考えることがしばしばある。
 温泉が本当に身体のために良いかどうかは、現今の医学では決定的な論断は下せないという話である。まあ効くだろうということくらいは云えるそうであるが、何故温泉が普通の湯、特に湯の花でも入れた湯よりも余計に効くかというような点になると、まるで分らないという話である。まあラジウムがあるからだろうとか、気分の転換が出来るからとか、都会生活を離れて清浄な空気が吸えるからとかいう程度の話はあるが、別に大した根拠のある話ではなさそうである。
 それでも私には温泉が非常に身体に効くような気がして仕方がない。この信仰は、現今の科学が温泉は効かないという「証明」をして見せてくれるようなことがたとえあったとしても、なかなかに揺がない位根強いものではあるまいかと思われるほどである。もっともその心配はないのであって、一時温泉の効用などを顧る暇のなかったくらい忙しかった我が国の医学も、近年になって段々にその価値を認めるような傾向になったということである。
 私の温泉に対する一種の信仰は、子供の時分私どもの郷里の田舎にあった湯治の風習が、幼い頭にすっかり浸み込んでしまったためではないかと思われる。この頃の都会で育った人、特に若い人たちには、温泉地というものは全くの遊覧地であって、療養地としての温泉などというものは想像も出来ないらしい。もっとも私たちの育った田舎でも、この頃は以前のような湯治の風習が全く跡を絶っている。僅か二十年くらいの間に、私共の郷里の農村から、先祖代々伝ってきた湯治という言葉がすっかり影をひそめてしまった。このことは、単に懐旧的の意味で惜しまれるばかりではなく、案外農村の一部の人々の保健の問題とかなり密接な関係がありはしないかという気もする。
 我が国の農村の人々の労働の激しさは、都会の生活者にはちょっと想像の外であろう。都会の塵埃の中に住んでいる人よりも田舎の清浄な空気を吸っている人の方が健康であろうと思うのは多くの場合間違いであって、この頃の農村の人々の健康状態が著しく悪いことは、農民の健康の上に国防の基礎を置いている一部の人々が暄しく[#「暄しく」はママ]論じておられる通りである。中には筋骨が逞しくて丈夫そうに見える人も沢山あるが、そのような人でも年をとると急に老けるのであって、田舎では五十歳といえば既に老人である。これは明かに労働の過度からくる現象であるが、労働の節制や営養の向上は、現在の状態では実際問題としては全く望み得ないことであろう。ちょっと温泉救国論めいた話になるが、二…

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