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自分だけの世界
じぶんだけのせかい
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「辻潤著作集3 浮浪漫語」 オリオン出版社
1970(昭和45)年3月30日
入力者et.vi.of nothing
校正者et.vi.of nothing
公開 / 更新1999-01-24 / 2014-09-17
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 これは読者のためではなく寧ろ自分の覚え書きのつもりで書いて置くのである。だが読者にも何等かの参考にならないとも限らない。自分はこの書(自我経)を訳了した時にはなんとなく仕事らしい仕事を片付けたような気がした。他の人から見たらなんでもないことかも知れないが自分だけには意味がありそうに思われたのである。
 自分は十年も前に読み始めた本をやっと今頃になって訳了したのである。翻訳の意志は元来此書を読み始めた時から萌してはいたがそれを何時始められるか、又何時終わるかはまるで見当がついていなかったし、よし訳したところで出版が果して可能であるか否かさえ勿論わからなかったのである。それにこの難解な書物を自分でよく訳了し得るかどうかということも頗る疑問であった。今、自分はそれでも「やっと片付けた」と考えると少しは嬉しいような気持にもなるのである。
 自分はこれを完全な翻訳だなどと公言することは遠慮しよう。なぜなら重訳である上にかなり無理が伴っているからである。それは第一僕自身のカルチュアに原因してはいるが、自分の経済的不如意が、どうしても落ちついてこの仕事をさせるようにしないからである。これは甚だ無気力な弁明ではあるが、事実は如何とも仕方がない。自分は自分の力だけのことしきゃ出来ないのだから。しかしどうかしてこの書を一字一句余さずに精読(実際自分のような「手から口へ」の生活者には翻訳でもする以外にはそんな余裕は与えられはしない)したいという強い気持が自分に元々あったために、時々起る馬鹿々々しいという気持を幾度となく押え付けて、やっと漕ぎつけた次第なのである。
 僕は少年の時分から早く世間の苦労をさせられたせいか、今考えても早熟なマセタ不愉快な少年だった。それに体質が元来丈夫ではなかったから、頗る陰気でもあった――十二三の頃から世の中というものはあまり愉快なものじゃない。イヤなところだという[#「いう」は底本では「いうう」]ことを泌々頭の中に注ぎ込まれた――だから、世間並の少年のように運動や遊戯をあまり好まなかった――黙って一人でなにか考えこんでばかりいた。学校へ行くことなども勿論、あまり好きではなかった。従って大方の少年の空想するように、英雄豪傑になろうとか、大政治家になろうとか、そんな希望や野心を抱いたことは一度もなかった――第一「なに」になろうなどということもハッキリ考えたことは殆どなかった――それならどんなことを考えていたかというと、実に考えてもなんにもなりそうもないことばかりを考えていた――「全体世の中というのはなんであるか?」「人間とはなにか?」「人間は全体どうしたら一番よく人として生きられるのか?」「神というような者は果して存在しているのだろうか?」「なんのために人生は存在しているのか?」(等)――つまりむずかしくいうと「形而上学的要求」という奴をやっていたのだ…

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