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私の母
わたしのはは
作品ID890
著者堺 利彦
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆42 母」 作品社
1986(昭和61)年4月25日
入力者もりみつじゅんじ
校正者菅野朋子
公開 / 更新2000-06-01 / 2014-09-17
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私の母、名は琴、志津野氏、父より二つの年下で、父に取っては後添えであった。父の初めの妻は小石氏で、私の長兄平太郎を残して死んだ。そのあとに私の母が来て、私の次兄乙槌と私とを生んだ。私の母が私を生んだのが四十二歳の時、兄を生んだのが三十八歳の時だったはずだから、思うに、母は三十六、七歳の時、堺家にとついだものだろう。
 かように母はずいぶんの晩婚であった。それには理由がある。もっとも、そんなことは、私が大人になってから独りで自然に考えついたことで、誰に話を聞いたのでもなく、また少年の頃は全く何の気もつかずにいたことである。母は甚だしいジャモクエであった。その頃の人としては、「キンカ上品、ジャモ柔和」というコトワザがあった位で、一通りのジャモなら一向問題にならなかったのだが、母のジャモはかなりひどかった。鼻の穴が片方はほとんど塞がっており、鼻筋は全く平らに押しつぶされていた。女としてそういう顔容になった以上、まず嫁入りは六かしいはずである。ただ、私の父が女房に死なれて貧乏世帯に子供をかかえて当惑した時、そこにほぼ双方の境遇が平均したものと考えられる。その外にどういう事情があったのか、私は少しも知らない。何にもせよ、母の晩婚の理由がその容貌上の大弱点にあったことは確かだと思う。しかし、そういう差引算用の結婚が必ずしも夫婦の愛を害するものではなかった。またそういう見苦しい晩婚の女の腹から、二人の立派な(!)男の子が生れるのに、何らの差支えがなかった。またその生れた子供が、母に懐き、母にすがり、母を慕い、母を愛するのに、その母の醜い容貌が何らの妨げにもならなかった。実際、醜いと感じたことすらなかった。
 しかしこういうことがあった。ある日、私が鳥わなの見廻りか何かに行って来ると、内には母がたった一人で炬燵にあたっていた。その顔がよほど変に、私に見えた。白毛まじりの髪が乱れかかっているところなど、物凄いような気がした。もしかこれが、狸か何かが来て母を喰い殺して、その代りに化けているのではないかと、私は思った。しかし母がやがて笑いを含んで話しはじめると、そんな怪しみなど勿論すぐ消えてしまった。私としては、若い美しい母などというものは、ついぞ考えたこともなかった。
 母は平仮名以外、ほとんど文字というものを書いたことがなかった。しかし耳学問はかなりに出来ていた。里方の志津野家が少し学問系統の家であったのと、三十幾つまで「行かず後家」の境遇にあったのとのためだろう、浄瑠璃とか、草双紙とか、軍談とかいうような物には、大ぶん聞きかじりで通じていた。私らを教訓する時、よく浄瑠璃の文句が引き言にされていた。そういう意味から言えば、私らは、父の方よりも、母の方からヨリ多く教育されていた。
 母はまた、憐みぶかい性質であった。折々門に来て立つ乞食のたぐいなどに対して、いつも温かい言葉を…

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